牧神の目覚め
身体がだるい。
加藤孝は、寝覚めの違和感に、このところ悩まされていた。
たっぷりと寝たはずなのに、妙に寝不足のようなだるさがある。
それは、忙しい平日だけでなく、休日でも同じだった。
数ヶ月前までは、こんなことはなかった。そう、前のアパートを引きはらって、健太郎とともにこの部屋に来るまでは。
ミニチュアダックスフントがキュルンと鳴いて、心配そうに孝を見つめる。
「ああ、ケンタ、大丈夫だって」
孝は、ミニチュアダックスフントの健太郎をひざに抱えた。
健太郎は、気遣うように孝の頬をペロリと舐めた。
「生まれ変わるんなら俺、ペットがいいよー」
秀明は、大きな身体を揺らして言った。
半年ほど前、孝は田中秀明と居酒屋で飲んでいた。
秀明は、大学時代の同じゼミの仲間だった。あの頃はよく飲みに行ったり遊びに行ったりしたものだった。
飲むのは卒業以来だった。あの頃は毎日のように会えていたし、秀明と特に親しくしていた自覚もなかったので、卒業してからの連絡先も交換しないでそのままになっていたのだ。
その日、孝は通勤ルートにあったチェーンのハンバーガー屋で秀明が働いていることを偶然知った。
「いま、俺の時間終わるところだから、ちょっと待っていて」
めったにハンバーガーなど買わない孝だったが、ふと小腹が空いて、仕事の帰りがけに立ち寄ったのだった。だから、秀明がここで働いていたことは、入社してから3年このかた知らなかった。
秀明は縞のシャツを着て、胸までくる濃緑のエプロンをかけ、白い紙の帽子をかぶっていた。孝が会計をしようと顔を上げたところに、秀明がいてお互いに気付いたのだった。
「店長~、ちょっと」
店の奥のほうから女の子の声が聞こえる。
「な、店の脇で待っててくれ」
愛想の良い笑顔でそう言い残すと、秀明は店の奥に消えていった。
数分後、私服に着替えた秀明が出てきた。大学の頃と変わらないチェックのシャツにジーンズ姿だった。
「孝はすっかりサラリーマンらしくなったなあ」
スーツ姿の孝を見て、秀明はまぶしそうに目を細めた。
「秀明は変わってないよ」
そんなことを言い合いながら、手近な居酒屋に入った。
「なんでまた、ペットなんかがいいんだよ。お姉さまの足とか舐めたいのか?」
「そんなんじゃないって。ペットはさ、好きなだけ寝て、あとは食べて、気が向いたら遊んでられるだろ?そんな暮らしがしたいなあって思ったんだよ」
「秀明らしいな。でもお前、そんなんやったら本当にブタになるぞ」
「ブタ?いいねえ。最近ブタもペットなんだろ?いいじゃん」
悪びれずに秀明は受け流した。
「食われるって、食肉用と間違われて」
「大丈夫だよ」
ふたりは笑いながらジョッキでカンパイした。
秀明の訃報を知ったのは、三ヶ月前だった。
居酒屋で飲んだのは半年前だから、その三ヵ月後になる。
死因は心不全だった。
「あの子は……会社に殺されたんです!」
お悔やみを述べた孝に、秀明の母親は張り詰めた声で答えた。
まわりの弔問客が驚いて振り向くのにも、構わないようだった。
「過労死するまで……こき使って!」
マスカラが涙に溶け、黒い筋が頬を伝う。隣の秀明の父親らしき初老の男性が、なだめるように肩に手を添えた。
弔問の後、そのままアパートに直行する気にもなれなかった孝は、複合ビルの中をぶらぶらと歩いた。お菓子の店やレディスファッションショップ、コスメティックの店など、孝にはおよそ用のない店が多かったが、そんな中に一軒のペットショップがあった。
動物を見たら癒されるような気がして、孝はペットショップに足を踏み入れた。今はアパート住まいで動物は飼っていないが、実家では犬や猫を飼っていたから抵抗はない。
猫、ウサギ、オウムなど、さまざまな動物のケージが店内を埋めつくしている。
ふと気が付くと、一匹のミニチュアダックスフントが、孝を見つめていた。
通常、ペットショップの動物たちは、見られることに慣れているからなのか、特定の客と視線を合わせないものが多い。
しかしその犬は違った。孝だけを凝視して、視線をそらさない。
その眼に孝はなぜかただならぬものを感じた。理由は分からないが、離れてはいけないような気がしたのだ。
「すみません、あの犬、予約できないでしょうか」
ペットショップの店員は快諾した。
それから孝が、ペットOKのアパートを探し、引っ越すまで一週間かかった。家賃は安くなかったが、それよりあの犬を連れて帰り、一緒に暮らすことのほうが重要なことのように、孝には思えたのだった。
家財が新しいアパートに入った知らせを受けた孝は、まっさきに犬を予約していたペットショップに行き、ミニチュアダックスフントを受け取った。
まだ段ボールだらけの部屋で、孝は犬を移動用のかごから出した。
「さあ、ここがお前の新しいうちだ」
健太郎と名づけられたミニチュアダックスフントは、眼を輝かせて段ボール箱の間を走り回った。
孝の体調の異変は、この引越しの後から始まっている。
孝は久しぶりに、パソコンを起動した。
「ん?」
作業をしようとマイドキュメントを開いたら、見慣れないファイルがあった。
「何々?『向こうずねに聞いてみろ?』」
ワードのファイルだった。
開いてみると、それは小説のようだった。孝の興味あるジャンルではなかったが、なかなかよく書けている。
しかし、孝はそんな小説を書いた覚えはない。そもそも小説など書けなかったし、書こうと思ったこともない。ネットで見つけた小説を気に入って、テキストをコピーしたりした記憶もない。もともとネット上の小説を読む趣味など、孝にはなかった。
「ん~、ど忘れかな?」
とりあえずそのテキストファイルはそのままにして、孝は作業に入った。
もともと孝は、ネットであれこれするほうではなく、パソコンを起動するのも必要に迫られた時くらいだった。
作業を終えた孝は、パソコンをシャットダウンした。それきりそのテキストファイルのことも忘れていた。
しかし翌日どうにも気になり、孝は再びパソコンを起動させた。
ひょっとしたらもう一回見たら何か思い出すかもしれない。
だが、マイドキュメントからそのファイルは消えていた。
孝は、消えたファイルを復元させる方法もあると聞いたことはあったが、そういった知識にはうとく、掘り下げる興味もなかった。
しかし、消えたファイルが気にはなる。
何か手がかりがあるかもしれない、そう思い、孝はネットでタイトルを検索してみた。
すると、『向こうずねに聞いてみろ』でヒットしたのは、オンライン小説のダウンロードサイトだった。
「え……!」
孝は自分の目を疑った。著者名に見覚えがあった。
「Panって……秀明じゃないか!」
「ギャン!!」
孝の大声に驚いたのか、犬の健太郎が飛び上がった。
振り向くと、固まっておびえたように孝を見ている。
「ごめん、びっくりさせちゃったか。ようしよし」
孝が頭を軽く撫でると落ち着いたのか、気持ち良さそうに目を閉じ、うずくまった。
加藤孝は、寝覚めの違和感に、このところ悩まされていた。
たっぷりと寝たはずなのに、妙に寝不足のようなだるさがある。
それは、忙しい平日だけでなく、休日でも同じだった。
数ヶ月前までは、こんなことはなかった。そう、前のアパートを引きはらって、健太郎とともにこの部屋に来るまでは。
ミニチュアダックスフントがキュルンと鳴いて、心配そうに孝を見つめる。
「ああ、ケンタ、大丈夫だって」
孝は、ミニチュアダックスフントの健太郎をひざに抱えた。
健太郎は、気遣うように孝の頬をペロリと舐めた。
「生まれ変わるんなら俺、ペットがいいよー」
秀明は、大きな身体を揺らして言った。
半年ほど前、孝は田中秀明と居酒屋で飲んでいた。
秀明は、大学時代の同じゼミの仲間だった。あの頃はよく飲みに行ったり遊びに行ったりしたものだった。
飲むのは卒業以来だった。あの頃は毎日のように会えていたし、秀明と特に親しくしていた自覚もなかったので、卒業してからの連絡先も交換しないでそのままになっていたのだ。
その日、孝は通勤ルートにあったチェーンのハンバーガー屋で秀明が働いていることを偶然知った。
「いま、俺の時間終わるところだから、ちょっと待っていて」
めったにハンバーガーなど買わない孝だったが、ふと小腹が空いて、仕事の帰りがけに立ち寄ったのだった。だから、秀明がここで働いていたことは、入社してから3年このかた知らなかった。
秀明は縞のシャツを着て、胸までくる濃緑のエプロンをかけ、白い紙の帽子をかぶっていた。孝が会計をしようと顔を上げたところに、秀明がいてお互いに気付いたのだった。
「店長~、ちょっと」
店の奥のほうから女の子の声が聞こえる。
「な、店の脇で待っててくれ」
愛想の良い笑顔でそう言い残すと、秀明は店の奥に消えていった。
数分後、私服に着替えた秀明が出てきた。大学の頃と変わらないチェックのシャツにジーンズ姿だった。
「孝はすっかりサラリーマンらしくなったなあ」
スーツ姿の孝を見て、秀明はまぶしそうに目を細めた。
「秀明は変わってないよ」
そんなことを言い合いながら、手近な居酒屋に入った。
「なんでまた、ペットなんかがいいんだよ。お姉さまの足とか舐めたいのか?」
「そんなんじゃないって。ペットはさ、好きなだけ寝て、あとは食べて、気が向いたら遊んでられるだろ?そんな暮らしがしたいなあって思ったんだよ」
「秀明らしいな。でもお前、そんなんやったら本当にブタになるぞ」
「ブタ?いいねえ。最近ブタもペットなんだろ?いいじゃん」
悪びれずに秀明は受け流した。
「食われるって、食肉用と間違われて」
「大丈夫だよ」
ふたりは笑いながらジョッキでカンパイした。
秀明の訃報を知ったのは、三ヶ月前だった。
居酒屋で飲んだのは半年前だから、その三ヵ月後になる。
死因は心不全だった。
「あの子は……会社に殺されたんです!」
お悔やみを述べた孝に、秀明の母親は張り詰めた声で答えた。
まわりの弔問客が驚いて振り向くのにも、構わないようだった。
「過労死するまで……こき使って!」
マスカラが涙に溶け、黒い筋が頬を伝う。隣の秀明の父親らしき初老の男性が、なだめるように肩に手を添えた。
弔問の後、そのままアパートに直行する気にもなれなかった孝は、複合ビルの中をぶらぶらと歩いた。お菓子の店やレディスファッションショップ、コスメティックの店など、孝にはおよそ用のない店が多かったが、そんな中に一軒のペットショップがあった。
動物を見たら癒されるような気がして、孝はペットショップに足を踏み入れた。今はアパート住まいで動物は飼っていないが、実家では犬や猫を飼っていたから抵抗はない。
猫、ウサギ、オウムなど、さまざまな動物のケージが店内を埋めつくしている。
ふと気が付くと、一匹のミニチュアダックスフントが、孝を見つめていた。
通常、ペットショップの動物たちは、見られることに慣れているからなのか、特定の客と視線を合わせないものが多い。
しかしその犬は違った。孝だけを凝視して、視線をそらさない。
その眼に孝はなぜかただならぬものを感じた。理由は分からないが、離れてはいけないような気がしたのだ。
「すみません、あの犬、予約できないでしょうか」
ペットショップの店員は快諾した。
それから孝が、ペットOKのアパートを探し、引っ越すまで一週間かかった。家賃は安くなかったが、それよりあの犬を連れて帰り、一緒に暮らすことのほうが重要なことのように、孝には思えたのだった。
家財が新しいアパートに入った知らせを受けた孝は、まっさきに犬を予約していたペットショップに行き、ミニチュアダックスフントを受け取った。
まだ段ボールだらけの部屋で、孝は犬を移動用のかごから出した。
「さあ、ここがお前の新しいうちだ」
健太郎と名づけられたミニチュアダックスフントは、眼を輝かせて段ボール箱の間を走り回った。
孝の体調の異変は、この引越しの後から始まっている。
孝は久しぶりに、パソコンを起動した。
「ん?」
作業をしようとマイドキュメントを開いたら、見慣れないファイルがあった。
「何々?『向こうずねに聞いてみろ?』」
ワードのファイルだった。
開いてみると、それは小説のようだった。孝の興味あるジャンルではなかったが、なかなかよく書けている。
しかし、孝はそんな小説を書いた覚えはない。そもそも小説など書けなかったし、書こうと思ったこともない。ネットで見つけた小説を気に入って、テキストをコピーしたりした記憶もない。もともとネット上の小説を読む趣味など、孝にはなかった。
「ん~、ど忘れかな?」
とりあえずそのテキストファイルはそのままにして、孝は作業に入った。
もともと孝は、ネットであれこれするほうではなく、パソコンを起動するのも必要に迫られた時くらいだった。
作業を終えた孝は、パソコンをシャットダウンした。それきりそのテキストファイルのことも忘れていた。
しかし翌日どうにも気になり、孝は再びパソコンを起動させた。
ひょっとしたらもう一回見たら何か思い出すかもしれない。
だが、マイドキュメントからそのファイルは消えていた。
孝は、消えたファイルを復元させる方法もあると聞いたことはあったが、そういった知識にはうとく、掘り下げる興味もなかった。
しかし、消えたファイルが気にはなる。
何か手がかりがあるかもしれない、そう思い、孝はネットでタイトルを検索してみた。
すると、『向こうずねに聞いてみろ』でヒットしたのは、オンライン小説のダウンロードサイトだった。
「え……!」
孝は自分の目を疑った。著者名に見覚えがあった。
「Panって……秀明じゃないか!」
「ギャン!!」
孝の大声に驚いたのか、犬の健太郎が飛び上がった。
振り向くと、固まっておびえたように孝を見ている。
「ごめん、びっくりさせちゃったか。ようしよし」
孝が頭を軽く撫でると落ち着いたのか、気持ち良さそうに目を閉じ、うずくまった。