センチメンタルシティ
店の看板には”柏木書店”と書かれていた。かなり古そうで、看板はところどころ朽ちかけている。
「すみませーん……」
店に入った途端、紙とインクのあの匂いが鼻孔を抜けていき、僕は浮足立った。大好きな本の匂い。もう会えない彼女の花の匂いの中にも、少しだけ混じっていた懐かしい匂い。
一、二分ほど扉の近くに突っ立っていたが、中からの反応がない。聞こえなかったのだろうか? 僕は恐る恐るカウンターと思しき木の机の前まで歩いて行き、再び声をかけた。
「すみません、あのー、誰かいますかー?」
刹那の沈黙。諦めて踵を返そうとしたとき、まるでドラマのワンシーンのように僕がドアノブに手をかけた瞬間、カウンターの向こうにあるカーテンから若い女性が顔を覗かせる。
「何か御用ですか?」
はきはきとした声だった。長い黒髪を高く結い上げて、フリルのついたシュシュで愛らしく飾っている。
「あ、えっと、これ……」
そう言って僕が差し出したのは、出入り口の扉に貼ってあった求人広告。
「僕、高橋 透って言います。あの、ここで働かせてもらえませんか……?」
この一言を言うのに、どれだけの勇気がいったかなど目の前の女性は知りえないだろう。
「少し待っててください、店長を呼んできます」
出てきたカーテンの向こう側へと消えていく彼女を見つめ、はっとする。
所作の一つを取るたびに揺れるポニーテイルから、僕は目が離せなくなっていた。あ、はい、とまるで上の空と言った返事をしてしまったが、悪い印象を与えなかっただろうか……。
悶々としながらも、本棚に詰まっている本の背表紙を目でなぞる。品ぞろえは他店とさほど変わらないようだが、昔の文芸誌のバックナンバーまであるなんて。
僕の生まれるずっと前に発刊された文芸誌や週刊誌たちは、時の経過など気に留める様子もなく、充てられた本棚のその場所で僕の事を見据えていた。
彼女が入っていったカーテンから、今度は老紳士が出てくる。分厚いレンズの眼鏡の奥の瞳は優しく、かつ僕を値踏みするようで、落ち着かない。すぐに後ろから先程の彼女もひょっこりと顔を出す。
「えぇっと、ここで働きたいのか。名前は確か……」
「高橋です。高橋 透と言います」
いささか声が小さかったかもしれない。それでも老紳士はうんうんと何度も頷き、やがて再び口を開いた。
「薫、事務室へ通しなさい」
薫と呼ばれた彼女は返事をすると、僕に視線をうつしてから手招きした。
「こっちです、高橋さん」
作品名:センチメンタルシティ 作家名:もの