センチメンタルシティ
びしょ濡れのまま家へ帰ると、ドアの前にうずくまっている人影がいた。僕がゆっくり近づいて行くと、その人影はのっそり顔を上げる。長めの前髪がぐしゃぐしゃになって、いつもかけている眼鏡は、ギターを弾くその大きな手の中。
そんな平川 肇が僕の玄関前に居た。
「肇? おい、大丈夫か?」
薄く開けられた目は生気を失い、心なしか頬がこけているようにも見える。
「……もう、駄目かもしれない……。俺、どうしよう……」
「何言ってんだお前。とりあえず鍵開けるから。立てるか?」
小さくうなずいた肇だったが、なかなか立ち上がろうとはしない。体が動かないのだろうか。再び項垂れた肇の、てっぺんだけが黒に戻りかけている茶髪を見つめていても仕方がない。無理矢理にでも引き上げようと手を伸ばした。
その時びくりと大きく肩が跳ね、濡れた目に見上げられる。
ただ事ではないことくらいは分かっているが、僕もびしょ濡れの身体のままなのだ。
「話はなかでゆっくり聞くから」
やや面倒そうに聞こえてしまったかもしれない。踏ん張って肇を立たせた僕は、性急に家の鍵を開け、雪崩れるように帰宅した。
正気が戻り始めたのか、水を飲ませると長い溜息をつく肇。僕は肇が口を開くまでずっと黙っていようと決めた。小さな部屋に散らばった沈黙。期待通り、破ったのは肇。
「なあ、透」
意気消沈した、諦めの混じっている声。滅多に弱音を吐かない肇が、ここまで追い詰められている。助けてやりたいけど、今の僕にそれが出来るだろうか。
肇の問いかけに、僕は「ん?」とだけ返す。
「悪いな、こんな夜中に押し掛けて」
前髪の間からのぞく眼鏡にふちどられた瞳は不自然に垂れ下がり、口も歪んでいて苦笑い。いつもの肇が見せる笑顔にはない表情。
「いや、別に気にしてないよ」
でも、と続けようとする肇を制し、また静寂。
「……ずっと今まで隠してたことがあるんだ」
俯いてしまった肇の声は、ようやく聞き取れる程度のものだった。たえられなくなり、息を吸い込む。
「薫のこと?」
かすかすと息の音しかしないような声になったことも気にせず、真っ直ぐに肇を見遣って、問いかけてみた。素直に、かつ重々しくうなずいたのを、僕はこの眼に認め、頬を緩める。
「なんで叶わない、手に入らないものばっかり欲しがるんだろうな」
僕も、と言いかけて、やめた。
矢追 優己。
振り払うように、濡れた髪をタオルで乱暴に拭きまわした。
作品名:センチメンタルシティ 作家名:もの