龍虹記(りゅうこうき)~禁じられた恋~・其の三
千寿の妹万寿姫が祝言を間近に控えて自害し、嘉瑛は千寿を手に入れる良策を思いついた。
確かに千寿に語ったように、将軍家の血を汲む名門長戸家の姫との婚姻は必要不可欠であった。それゆえ、あんな大人しいだけが取り柄のようなつまらない女でも、大切に扱ってやったのだ。長戸氏の姫でなければ、万寿姫なぞ何度か慰みものにして、さっさと棄てていただろう。
だが、嘉瑛にとって、それは所詮、表向きの理屈、建て前にすぎなかった。心底には、千寿への烈しい恋情が燃え盛っていたからこそ、千寿を妹の替え玉とするなどという茶番を考えたのだ。
人間とは不思議なものだ。千寿は、これまでどんな残酷な拷問を受けても、いささかも揺らぐことのなかった。そんな少年であっても、嘉瑛が抱こうとすると、泣いて厭がり逃げ回った。
どんなときでも毅然としていた少年が抱かれるのだけは厭だと訴えて泣く。千寿の泣き顔は嘉瑛にとって新鮮だった。
千寿の泣き顔や涙が余計に彼を煽り、凶暴にかきたてる。婚礼の夜以来、嘉瑛は千寿を幾度も抱いた。初めは千寿は厭がったが、次第に抵抗もしなくなり、嘉瑛を受け容れるようになった。だが、烈しい情交を重ねた後、千寿が一人で声を殺して泣いているのは知っていた。恐らく、千寿は嘉瑛が寝入っていると思っているのだろうが―。
あれだけ強い瞳を持ち、拷問にも灼き印にも弱音を吐かなかった千寿が、嘉瑛と褥を共にするときはひどく哀しそうな表情をする。
閨を共にする間中、すべてを諦めたかのように瞳を潤ませ、歯を食いしばって耐えている。そんな千寿を見ている中に、嘉瑛の中で次第に焦りが生じていった。
これほどまでに愛しているのに、どうして振り向かない?
何度膚を合わせても、千寿は一向に靡こうとはしなかった。
言葉で、金銀や財宝で千寿の歓心を得られるのであれば、嘉瑛は何をも惜しみはしないだろう。千寿の心を繋ぎ止めることができれば、水面に映る月でさえ、取ろうとするかもしれない。
愚かだ、馬鹿げていると自分でも知りながらも、嘉瑛はなおいっそう千寿に溺れずにはいられないのだ。
千寿を腕に抱いているときは、確かに千寿の瞳は揺れるが、かといって、その瞳が嘉瑛を見つめているわけではない。千寿は常に、嘉瑛ではなく、その向こう―はるか先を見つめているように見えた。
その先にあるものが何なのか、嘉瑛には判らない。千寿が何を望み、何をしたいと願っているのか、嘉瑛には想像もつかなかった。
千寿が見つめているものは、人と人が殺し合うことのない、すべての者が明日を夢見るて生きることができるような世であった。しかし、嘉瑛がそれを知ることは永遠になかった―。
嘉瑛は長い物想いから自分を解き放った。
改めて恋しい少年を見つめると、嘉瑛はゆっくりと千寿に近付いた。
陽の光が板塀の隙間から、光の梯子のように幾筋も差し込んでいる。
透明な陽差しが少年の頬をやわらかく照らし出していた。ややふっくらとした輪郭を描く頬、みずみずしい桜色の唇を見つめている中に、嘉瑛の中で熱いものが滾ってゆく。
久々に烈しい欲望が渦巻いていた。このあどけない顔をして眠っている少年の身体に触れたい。熱く滾る己れ自身をこの華奢な肢体の奥深くに沈め、少年が許しを乞うまで思う存分に責め立ててみたい。
嘉瑛の視線が少年の全身を辿った。顔も手も脚も随分と汚れている。泣きながら眠ったのか、頬には涙の筋が幾つもあった。小さな可愛らしい脚には、無数の擦り傷や切り傷があり、乾いた血がこびりついている。
酷い有り様にしては、安心しきったような表情で眠っている。嘉瑛の側で眠るときには、このような安らいだ顔を一度として見せたことはなかった。
ふいに、嘉瑛の中で憤りが生まれた。
何故、千寿は自分からこんなにまでして逃げようとするのだろう。自分の妻として―妹の身代わりではあるが―生きてゆけば、何不自由のない暮らしを約束されるというのに。 白海芋のようにすべらかな白い膚を傷つけ、血を流してまで、何故、千寿は嘉瑛から逃げようとするのだろう。
自分はこれほどまでに、千寿に焦がれているというのに!
いまだかつて、千寿を求めるほど、欲しい、抱きたいと思った女はいなかった。たとえ、千寿が少年であったとしても、そんなことは構いはしない。千寿さえ側にいてくれれば、心からの笑顔を見せ、その身をゆだねてくれれば、他に望むものなどありはしない。
そこで、嘉瑛は愕然とした。
そう、応えは簡単、とうに判り切っていたことではないか。千寿は自分を嫌っている。
だからこそ、どこまででも逃げてゆこうとするのだ。
―許さぬ、お前は俺のものだ。
たとえ、どこまで逃れようと、地の果てまでも俺はお前を追いかけてゆく。
嘉瑛の双眸で蒼白い焔が燃える。
そっと顔を寄せ、少年のやわらかな唇に自分のそれを押し当てる。
「う―ん」
千寿が愛らしい声を上げて、寝返りを打とうとする。だが、嘉瑛の逞しい身体が上から覆い被さっているため、思うようにならない。その声さえ、今は嘉瑛の燃え上がろうとする情欲をよりいっそうかきたてる。
そっと口の中に舌を差し入れると、呼吸ができないのか、千寿は苦しげに眉を寄せた。
「う―ん?」
千寿の長い睫が細かく震えた。ゆっくりと見開いたその瞳に、烈しい怯えが浮かんだ。
千寿は夢を見ていた。
紅海芋の花が咲き乱れる泉水で、千寿は水浴びをしていた。例の、水汲みに来ていた泉水である。
冷たい水が心地良く、心まで洗われるようだ。千寿が両手を伸ばして深呼吸したその時、唐突に右脚が引っ張られた。
―誰ッ。
千寿は烈しい恐慌状態に陥る。
だが、もがけばもがくほど、千寿の小柄な身体は泉水の奥底へと沈んでゆく。何ものかが物凄い力で千寿の脚を引っ張り、水底へ引き込もうとしている。
とうとう頭まで水にすっぽりと浸かり、呼吸もできなくなった。
―く、苦しい。
千寿はあまりの息苦しさに喘いだ。
「う―ん?」
思うように息ができぬ苦悶に呻き、意識が急速に覚醒する。
眼を開いた千寿は、眼前に最も逢いたくない男の貌を認めて言葉を失った。
「い、いやっ」
千寿は悲鳴を上げ、後ずさった。
「俺を本気で怒らせるとは、愚かな奴だ」
嘉瑛が聞いているだけで凍えそうな冷たい声を千寿に向けた。
「随分と余計な手間をかけさせるものだな、姫?」
「あ―」
千寿は烈しい怯えを黒い瞳に滲ませ、絶望の声を洩らした。
どうして、この男がこんなところにいるのだろう?
「い、いやだ。来ないで、来るなっ」
千寿は形の良い唇を戦慄かせた。
嘉瑛が手をのばそうとすると、千寿は厭々をするように首を振った。
「いやだーっ」
夢中で起き上がり、逃げようとする腕を摑まれ、千寿は呆気なく転んだ。嘉瑛はそんな千寿を抱きかかえ、藁の褥に乱暴に放る。
「い、痛いッ」
その拍子に腰だけでなく、挫いた脚までをもしたたか打ちつけてしまう。千寿は涙眼で脚をさすった。
「どうした、痛むのか」
嘉瑛の手が千寿の腰から尻を撫で回す。
「触るなッ」
千寿が泣きながら、嘉瑛の手を振り払った。
嘉瑛は呆れたように鼻を鳴らす。
と、千寿が再び、顔を歪めた。
作品名:龍虹記(りゅうこうき)~禁じられた恋~・其の三 作家名:東 めぐみ