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龍虹記(りゅうこうき)~禁じられた恋~・其の三

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 白鳥にいた頃の自分は、あまりにも子どもだった。何不自由のない暮らしをし、城主の息子、世継の若君として世の苦労も生きる哀しみも何も知らなかった。与えられる幸福を当然の権利だと思い込み、受け取っていた我が身が今は恥ずかしい。
 城を失い、頼りとする両親、妹までをも失った代わりに、千寿はまた多くの人にめぐり逢った。嘉瑛に知られぬよう、ひそかに火傷の手当をしてくれた牢番の恒吉、更に、森に住んでいた猟師の女房やす。やすは最後まで千寿を庇おうとしてくれた。この世の中には、実に様々な人がいるのだと知った。
 彼等の優しさを、千寿はずっと忘れないだろう。
 もっと強くなりたい。
 千寿は切実に願った。
 もっと強い自分になって、いつか白鳥の国を取り戻し、長戸家を再興したい。
 千寿は今、落城の間際、父が遺した言葉の意味を悟った。
―どのようなことがあっても、生きるのだぞ。
 この乱世が続く限り、人々はいつまでも殺戮を繰り返さねばならない。親子が争い、兄弟が殺し合う―、そんな世の中はどこか間違っている。
 人が人を殺せば、そこに憎しみが生まれ、大切な人を殺された者が敵(かたき)を取れば、また、そこに新たな憎しみが生まれる。つまり、憎しみが憎しみを呼び、人々は未来永劫、憎しみ合わなければならない。
 それは、何と哀しいことか。
 ならば、誰かがそんな世の中をただせば良いのだ。この乱世に終止符を打てるだけの、天下を平定できるだけの力を持つ強い武将が現れれば、もう無用の殺戮を繰り返すことはないだろう。
 今の武将たちは皆、己れの領地を少しでも広くしたいとただ我欲のみで戦を繰り返している。だから、平然と人を殺し、住む場所を奪い、女に狼藉を働く。
 もし、私利私欲のみではなく、真に民を、国の安寧を思う武将がいて、そんな人物が天下を統一してくれたなら。
 千寿はそう、強く願わずにはおれない。
 今の自分は、あまりにも無力すぎる。だが、願えば、努力すれば、いつかは川を泳ぐ小さな魚も天翔(あまかけ)る龍となれるかもしれない。
 果たして、自分にそんな力があるのかどうかは判らない。ただの無知な子どもの途方もない夢物語なのかもしれない。それでも。
 強く、強くなりたい。
 この国から戦乱を亡くし、人が明日を夢見て生きることのできる平らかな国を築きたいと千寿は思った。
 そんなことを考えている中に、睡魔が襲ってきた。
 ここにいれば、嘉瑛に捕まる心配もないだろう。今はとにかく眠れるだけ眠ろうと、千寿は静かに眼を閉じた。

 
   
      虹の彼方に



 千寿が深い眠りにたゆたっていたその頃、森の奥深くに建つ小屋の前に馬が止まった。見事な鹿毛に跨っているのは若い武将で、その後に二人の従者がやはり騎乗して従う。
 短いいななきを上げて止まった愛馬からひらりと飛び降り、武将は背後をちらりと振り返った。
「少し待て」
 そのひと言だけで、従者たちは、すべてを悟る。主は、この小さな廃屋の中に獲物がいることを敏感に察知したのだろう。彼等は、いずれも少年期から小姓として主君に仕え、長じて後は近習として常に側近く侍っている。主(あるじ)の性格は熟知していた。
 武将―嘉瑛は一人、小屋の中に入った。
 最初は戸外の明るさに慣れた眼には、室内はあまりにも暗かった。しかし、徐々に眼が慣れてくるにつれ、小屋の内部が把握できるようになった。
 小屋の片隅に積まれた藁の上に、彼が探し求めてきた想い人がいる。
 全く、手間をかけさせるものだ。
 嘉瑛は皮肉げな想いで片頬を歪めた。
 千寿丸が木檜城から姿を消してから、既に三日が経過している。その間、嘉瑛は狂気じみたほどの熱心さでこの少年を探してきた。
 一昨日の明け方近く、森に住む猟師勘助が千寿らしい少女が自分の家に滞在している―と訴え出てきた。勘助が話すその少女の歳格好、容貌から、まず千寿に相違ないと見当をつけ、嘉瑛自身が信頼の置ける家臣を引き連れ、こうして千寿のゆく方を追ってきた。
 勘助から報告を受け、すぐに城を出たにも拘わらず、嘉瑛が勘助の住まいに到着した時、既に千寿は逃げ出した後であった。
 まるで、この手に捕らえようとすれば、するりと身をかわし逃げる小動物のようだ。
 自分でも信じられないことだが、嘉瑛はこの少年に本気で惚れていた。そう、これまで、どんな美しい女、色香溢れる女と褥を共にしても心を動かされることのなかった男が生まれて初めて恋に落ちたのだ。
 何故、この少年だったのかは自分でも判らない。外見だけなら、千寿の妹万寿姫も十分可憐で美しかった。ただ、妹の方は見かけだけは美しくとも、才気どころか、自分の意思一つ持たない人形のようなつまらない女であった。
 千寿はたとえ外見は妹と瓜二つでも、内面は妹とは全く違っていた。
 初めて千寿と逢ったときのことを、嘉瑛は忘れられない。
 匿われていた千寿と妹姫は敵方に捕らえられ、捕虜となり、木檜城に護送されてきた。妹の方は初めから許婚者扱いして城内で客人としての待遇を与えたが、兄の方はあくまでも敵将の遺児として接した。
 嘉瑛の前に引き立てられてきた千寿は、強い眼をしていた。海芋の花のように凛として、捕虜となった己れをいささかも恥じることなく毅然としていた。
 思えば、あの瞳の強さに惹かれたのかもしれない。
 どれだけ打ち据えられても、すべてを呑み込みなお悠然として流れる河のように、千寿の瞳は静謐であった。弱冠十五歳の少年のどこに、そんな強さが秘められているのだろう。あのすべてを超越したかのような瞳が揺れるところを何としてでも見てみたいと、焦がれるほどに思った。
 嘉瑛はそれ以降、千寿をまるで飼い犬のように扱った。背中に生涯消えることのない灼き印を捺したのも、折檻のためというよりは、本当は千寿を永遠に自分のものにしておきたかった―実に幼稚な所有欲のためである。
 だが、身体に嘉瑛の名を刻み込まれても、千寿はけして卑屈にはならなかった。厩に住まわせ、馬の糞尿にまみれながら、馬の世話を淡々とこなしていた。
 嘉瑛は何度か、厩の側を通りかかったことがある。その時、千寿は馬たちにあたかも人間に話しかけるように優しく話しかけながら、その体を拭いてやっているところだった。
―馬鹿な、馬に話しかけたところで、判るはずもなかろうものを。
 自分は馬以下の扱いを受けているくせにと、腹立しい想いになった。
 しかし、本当に癪に障ったのは、そんなことではない。そのときの千寿の表情が実に生き生きと輝いていたからだ。
 到底、意に添わぬ日々を強いられ、鬱々と過ごしているようには見えなかった。
 それからだろうか。千寿の動向に必要以上に敏感になり始めたのは。千寿に気付かれぬよう、物陰に潜んでその姿を眺めることもしばしばだった。
 そんなある日、嘉瑛は千寿が森の泉で水浴びしている姿を見てしまった。その白い清らかな裸身を目の当たりにしてからというもの、嘉瑛の千寿への恋慕はいっそう募った。
 千寿恋しさに、水汲みにゆく彼の後をつけてゆき、樹陰からその肢体を眺めたのも一度や二度ではない。
 運命とは皮肉なものだ。