龍虹記(りゅうこうき)~禁じられた恋~・其の三
樹々が茂っているせいで、夏場もひんやりとして涼しい森の中ではあるが、その分、暗くなるのも早い。暗くなれば、徘徊する獣に襲われる危険が高くなる。明るい中に今夜の宿を見つけた方が良いのは判っていたけれど、このような森の中に住んでいる者がそうそういるはずもない。
陽が完全に落ちる前、千寿は幹の下方に大きな洞(ほら)がある樹を見つけ、その洞を今宵の宿にすることに決めた。小柄な千寿ならば、身を縮めれば、一晩くらいは雨露を凌げそうだ。
千寿は洞の中で小さな吐息をつき、両膝を抱え、その間に顔を埋めた。ここは森のかなり深い場所になるはずだ。徒に歩き回って追っ手と遭遇するような愚を犯すよりは、ここに身を潜め、追っ手が諦めて引き返すのを待つ方が賢明かもしれない。
獲物を捕っても、火を焚くこともできない。火を焚けば、煙が上がり、すぐに追っ手に見つかるからだ。やすの家を出てから今日一日、何も食べずに歩き回ったため、空腹はひどかったが、飢えは道々取ってきた草の根や樹の実を囓って凌ぐ他なかった。
そうしている中に、うとうとと眠ってしまったらしい。低い唸り声を聞いたような気がして、千寿はハッと飛び起きた。耳に全神経を集め、外の様子を窺う。
グルグルと低い不気味な唸り声が聞こえてくる。
―まさか、狼?
千寿の顔から血の気が引いた。
火を焚いていれば、狼や山犬の類の獣を避けることができるのだが、生憎と今の千寿は身を守るすべを持たない。
いずれにしろ、これは大変まずい。
唸り声は段々と近づいてくる。このままでは、人の臭いを嗅ぎつけた狼が洞の中にまで入ってくるだろう。飛びかかってきたら、もう逃げようがない。千寿は一か罰かの賭に出た。素早く洞から出ると、幹の窪みに脚をかけ、樹を登り始めたのだ。人の気配と物音に勘づいた狼が咆哮を上げながら、こちらに向かって走ってくる。
間一髪のところで、千寿は難を逃れた。比較的太い頑丈そうな枝を見つけ、そこに身を落ち着けると、漸く少し心にゆとりが出た。
恐る恐る下を見やると、狼たちが無念そうに樹の根許を爪でひっかいたりしていた。月明かりがないのでよくは判らないが、ざっと見ただけでも五、六匹はいるだろう。もし、ほんの少しでも千寿の判断が遅ければ、今頃はあの怖ろしい狼たちの餌食になっていたのだ―と考えると、怖ろしさに叫び出しそうになった。
狼たちはなおもしばらく、諦められず樹の回りをうろついていたが、やがて何とも不気味な咆哮を残して夜の闇に消えていった。
それでも、千寿は東の空が白々と染まる暁方まで、まんじりともせず心細さを抱えて過ごした。いつ、あの怖ろしげな狼たちが戻ってくるかとかと思うと、気が気でなかった。
しかし、幸いにも狼は二度とやって来ることはなく、千寿は無事、朝を迎えることができたのである。
千寿は陽が昇ってから、用心しながらまた幹をつたいながら地上に降りてきた。既に空腹は極度に達していた。喉も渇いている。
できればもう一歩も歩きたくないと思ったけれど、ここで呑気に休んでいることはできない。愚図愚図していては、追っ手に捕まってしまう。
―今日こそは、何としてでも森を出なくては。
千寿は焦燥に駆られながら、再び疲れた身体を引きずるようにして歩き始めた。
歩きながら、涙が溢れてきた。
何故、自分は、こんな哀しい想いをせねばならないのか。生きるということは、こんなにも辛いことばかりなのか。いっそのこと、この場で倒れて今すぐに生命尽きてしまった方が良いとさえ思う。
すべては、あの男―木檜嘉瑛のせいだ。
あの男が千寿から、すべてのものを奪った。白鳥の城を焼き、大切な家族―両親、妹を殺した。嘉瑛は千寿から何もかも奪い尽くしただけでは済まず、今度は千寿を死んだ妹の身代わりに仕立て、千寿の身体を欲しいままにしている。
千寿は頬を流れ落ちる涙を片手でぬぐった。手も脚もとにかく身体中が汚れているため、涙まで黒く染まっている。
千寿は手に付いた黒い涙を見て、ふっと笑った。こんな弱気なことでは駄目だ。とにかく気を確かにもって、白鳥の―生まれ故郷の地を踏むことだけを考えなければ。
千寿は脚許の悪い道をひたすら歩いた。
いかほど歩いただろう、太陽の位置からすれば、丁度昼を回った頃、歩き疲れた千寿は大きくよろめいて転んだ。この道は進めば進むほど、歩き辛くなってくる。林立する樹の根と根が複雑に絡み合い、それが地面の上にまで盛り上がっているのだ。
どうやら、その一つに脚を取られたらしい。
―もう、駄目だ。
千寿は倒れ込んだまま、しばらく動けなかった。いや、動こうという気力も失っていたのだ。転んだ拍子に口の中を切ったのか、血の味がした。
だが、ここで倒れたままでいるわけにもゆかない。千寿は再び緩慢な動作で身を起こした。身体中の節々が悲鳴を上げる。そろりと片脚を前へと踏み出したその時、烈しい痛みが走った。
「ツ」
千寿は右脚を押さえ、その場にうずくまる。
間の悪いことに、挫いたらしい。
少し動かしただけで、激痛が走り、到底歩くどころではない。
千寿が絶望的な想いでうつむけていた顔を上げた時、ハッとした。この少し先から道が踏みならされ、細いながらも人が通ったと思われる後がある。よくよく見れば、手入れはされてはいるといえ、道には草が茂り、既に使われなくなって久しいように見えた。
だが、この際、贅沢を言っているべきではない。千寿は痛む脚を庇いながら、最後の力を振り絞って歩いた。ものの四半刻も歩かない中に、道が途切れ、それまで周囲を遮っていた緑の樹々がなくなった。
明らかに誰かが昔、ここにあった樹を切り倒した跡があり、信じられないことに、小さな小屋がぽつねんと建っていた。道を整えたのも、恐らくはこの小屋を建てた者だろう。
千寿は神仏と、はるか昔にこの小屋を建てたであろう人物に感謝しながら、夢中で小屋に近付いた。
小屋の方も道と同様、住む者がいなくなって長いらしい。そのことを物語るかのように、屋根や壁の一部が朽ち、崩れかけている部分さえあった。しかし、これだけ土台がしっかりしていれば、何日間はここで過ごすことはできる。
千寿は注意しながら、その小屋へと入った。表の戸は引き戸になっており、こちらはまだしっかりしている。用心深く、周囲に誰もいないことを確かめてから、元どおりに戸を閉めた。
小屋はただっ広く、ひと部屋しかなかった。住まいというよりは、猟師が狩りに出た折、休憩や宿泊に使ったのかもしれない。それでも、片隅には藁がうずたかく積まれていて、竈らしきものには、昔、火を焚いた跡も残っていた。
千寿は積まれた藁にドサリと倒れ込んだ。
長らく放置されたままの藁は湿った黴臭い臭いがしたが、そんなことに気を払う余裕はなかった。ただ、今はひたすら眠りたい。
飢えと寝不足が重なり、千寿の疲労は極限状態に達していた。
ああ、幸せだと、千寿は心から思った。
何の愁いもなく、手脚を伸ばして眠ることができるのは、どんなにか恵まれていることか。
作品名:龍虹記(りゅうこうき)~禁じられた恋~・其の三 作家名:東 めぐみ