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龍虹記(りゅうこうき)~禁じられた恋~・其の三

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「俺は金儲けのためなら、何でもするさ。木檜城のお殿さまはあの姫さまに相当なご執心らしい。血眼になって探し回ってて、何でも捕らえて差し出した者には黄金を賜るってえお触れが出たって、城下でも専らの噂よ。おゆきを失ってから、金のためなら鬼にでも何にでもなろうって思ったんだ。黄金のためなら、何だってする」
「お前さんッ!!」
 やすの泣き崩れる声に、扉の閉まる音。
 勘助が出ていったのだと判る。
 勘助はその言葉どおり、木檜城にゆくつもりだ。そして、ここに千寿がいることを告げるのだろう。
 こうしてはいられない。一刻も早くここを出なければと、千寿は唇を噛みしめた。
 勘助は最初から敵意を剥きだにしていたけれど、やすは良くしてくれた。そのことに、心から感謝していた。
 千寿は懐からひとふりの懐剣を出した。
 この懐剣は母の形見であり、母亡き今は、母を偲ぶたった一つのよすがだ。でも、やすであれば、これを託しても良い気がした。
 この懐剣は名のある職人が作ったものだ。売れば、かなりの値になるだろう。やす夫婦が数年は暮らしてゆけるほどの金にはなる。
 この懐剣を置いてゆくことは、また、千寿にとっては、もう一つの意味もある。
 妹万寿姫はこの剣で自らの生命を絶った。
 だが、千寿は死なない。父や母から託された長戸の家を守り抜き、この乱世を生き切ってみせる。懐剣を手放すことは、千寿なりの覚悟の表れでもあった。
「やすさん、ありがとう」
 千寿はひとふりの懐剣をそっと布団の上に置く。束の間ではあったが、やすとの出逢いは、千寿にとって得難い、忘れ得ぬものとなった。
 後年、千寿は、一度だけ、この猟師の女房を訪ねている。時に千寿は三十を過ぎた壮年となっており、どこから見ても、立派な武将であった。涼しげな目許、秀麗な面立ちは確かに十五歳の頃の面影を残してはいたものの、すっかり様変わりしていた。何より、やすの見た千寿は少女の姿をしていたのだ。
 しかし、大人になった千寿をひとめ見て、やすは千寿を十五年前に見た少女だと見抜いたという。この時、既に勘助は病で亡くなり、やすは細々と内職で組紐を作って暮らしていた。千寿はやすの前に跪き、その皺だらけの荒れた手を押し頂いた。
―私が今日あるのは、あなたのお陰にございます。
 あの時、故あって女のふりをしていたのだと話し、心からの礼を述べた千寿に、やすは、十五年前と同じようにからからと明るく笑った。
―いやだねぇ。そんなに改まって礼を言われるほど、たいしたことはしてないよ。
 やすは、既に五十を越えていた。次の天下人となるのではないか―、そう囁かれるほどの武将になった千寿の姿を見て、〝立派になったねぇ〟と嬉しげに言い、はらはらと涙を流したという。
 千寿は、やすに多額の金子と着物を与え、やすは、千寿が十五年前に置いていった懐剣を返した。愕くべきことに、やすはあの懐剣をずっと売りもせず、手放しもしなかったのだ。亡き母の形見はこうして、十五年ぶりに千寿の手許に戻った。
 その後日談はともかく、勘助が木檜城に出向いたことをやすが千寿に知らせようと寝室の障子を開けた時、既に千寿の姿はどこにも見当たらなかった―。
 薄い夜具はまだほのかに人の温もりが残っていた。さして時間の経たぬ前に出ていったのだろうと思われた。
 やすは布団の上に何かが落ちているのを見つけた。
「忘れ物―?」
 よくよく気をつけて見ると、それは黒塗りの懐剣であった。蒔絵細工が施されている見事なものだ。このような物は、ついぞ触れたことはなかった。
 やすは懐剣を拾い上げた。
 あの娘はこれを忘れていったのではない。
 わざと、置いていったのだ。この懐剣を売れば、どれだけの金になるだろう。恐らくは世話になった礼のつもりではないのか。
 やすには、娘の考えていることがよく判った。
「親不孝の我が儘姫なんかじゃないよ。あたしにはよく判る。あんたは優しい、良い娘だ」
 やすは千寿の残した懐剣を胸に抱き、呟いた。
 そろそろ、夜が明けようとしている。次第に明るくなり始めた東の空の端を眺めながら、やすは、少女の無事を祈らずにはいられなかった。

 時折、何の鳥なのか、頭上でかしましい囀りが聞こえる。それ以外は、一切音のない静寂が余計に千寿の焦りをかきたてていた。
 少しでも先に、あの男から遠くにゆかなければならない。ただその一心で、千寿は先を急ぐ。
 千寿は形式だけとはいえ、嘉瑛の妻であった。たとえどんな理由があるにせよ、良人に黙って城を出たことは決定的な裏切りとなる。
 しかも、万寿姫(千寿)は、名門長戸氏の最後の生き残りである。足利将軍家の血を色濃く引く姫を、諸国の武将たちもまた我が物にせんと虎視眈々と狙っている。わずか十五歳の彼(彼女)は、次の天下人の座を狙う諸将にとっては、得難い価値を持つのだ。
 婚礼の夜、嘉瑛が千寿に告げたように、天下を取るにも大義名分が必要だ。即ち、衰退しつつある将軍家の権威を力のある武将が取り戻してやり、将軍家の後見人として天下に号令するという方法である。そして、いずれは将軍を廃し、その次の将軍に我が子をつける―そのためには、是が非でも足利将軍家の血を汲む長戸氏の姫が必要だった。
 だが、と、千寿は自嘲気味に思った。
 自分は千寿丸であって、妹万寿姫ではない。
 男の自分を万寿姫と偽り妻にすることで、当面は嘉瑛も面目を保つだろう。しかし、千寿は幾ら嘉瑛と褥を共にしようと、子を生むことなぞできようはずがないのだ。―もっとも、自分が女人であったとしても、あのような憎い敵の子を身ごもるなど真っ平ご免だけれど。
 嘉瑛から運良く逃れ得たとしても、他国の武将に捕らえられるようなことがあれば、万事休すだ。ましてや、千寿が真に妹の万寿姫ならともかく、実は兄だと露見すれば、まず生命はあるまい。長戸氏の血を引く姫には利用価値はあるが、直系の男児である千寿は、諸将にとって、ただ邪魔だけの存在なのだ。
 千寿は、やすの家を出てから、ひたすら森の奥に向かって歩いた。とにかく少しでも先に進み、一刻も早く森を抜けなければならない。
 勘助が木檜城に赴き、事の次第を告げれば、嘉瑛は直ちに追っ手を差し向けるだろう。追っ手は、まず森の中をくまなく探すに違いない。そうなってからでは遅いのだ。追っ手がやって来る前に、森を抜けなければならなかった。
 だが、こんなときは焦れば焦るほど上手くゆかない。どうやら迷ったらしいと気付いたのは、やすの家を出て既に一刻以上は歩いてからのことであった。
 千寿は途方に暮れた。西に向いて歩いてゆけば出口に繋がっていると思い、ずっと西方向を目指しているつもりだったのに、どこで迷ってしまったのだろうか。
 頭上を振り仰げば、鬱蒼と茂る樹々が林立し、緑、また緑がひろがっているばかりだ。同じような形の樹、枝葉の付き方―、どこまで行っても、同じ景色ばかりが続いている。闇雲に歩き回っても、これでは、余計に迷ってしまう。
 千寿は昼過ぎまでその場所にいた。大木の根許に膝を抱えて座り込み、ひたすら刻が過ぎるのを待った。しかし、次第に夕暮れが迫ってくると、再び歩き出した。