龍虹記(りゅうこうき)~禁じられた恋~・其の三
―おゆきちゃんは階段から落ちて死んだだなんて、大嘘です。
好色な主人はかねてからおゆきに眼をつけていた。ある夜、主人が自分の部屋に茶を運ぶように言いつけ、やって来たおゆきを手籠めにしようとしたのだ。むろん、おゆきは愕き、烈しく抵抗した。その際、揉み合っている中に、柱の角に頭をぶつけ、それが生命取りになったのだという。
―あたし、悔しくて。このまんま、誰も真実を知らないままじゃ、おゆきちゃんがあんまりにも可哀想だと思って、今日はここに来たんです。
きくは大粒の涙を流しながら、そう言った。
おゆきは生きていれば、もう十九になるそうだ。
千寿は、何と応えて良いものか判らなかった。ありきたりのどんな言葉も、安易な慰めにしかならないだろうと思い、ただ黙って、やすの話を聞くにとどめた。
「そうそう、明日の朝、あんたが出ていくときには、干し肉を少し持っていくと良いよ」
亡くなった娘の話を終えると、やすは思い出したように言った。
やすは、どうやら千寿が一泊すると決めているようであった。泊まっていけと勧めるやすに、千寿はありがたくその厚意に甘えることにした。二日間、森を歩き通しで正直、疲れ果てていた。夜は火を炊いて野宿をしたが、いつ山犬に襲われるかと思えば、怖くておちおち眠ることもできなかった。今夜だけでも安堵して床の中で眠ることができるのであれば、こんな幸せはない。
「成長期にはたっくさん食べとかないと、ほら、あたしのように出るところが出てこないよ? あんたは器量良しだから、もう少し身体つきが豊かになって女っぽくなったら、さぞかし男にモテるだろうね」
やすは半ば冗談のように言い、からからと明るく笑った。
やすは、少女のなりをしている千寿を女だと信じて疑ってはいない。この人の好い女房にはすべてを打ち明けたい想いになったけれど、千寿は寸でのところで思いとどまった。
やすが千寿の秘密を他言するとは思えないけれど、万が一、嘉瑛の追っ手がここを突き止めるようなことがあった時、何も事情を知らぬ方が、やすにとっては良いはずだ。知らなければ、何も応えようがない。
この人の好い優しい女をみすみす巻き添えにはしたくなかったのだ。
陽が落ちる頃になって、勘助が戻ってきた。 勘助は〝ただいま〟とも言わず、千寿を認めるとプイと奥の部屋に引っ込んだ。
その眼には明らかな迷惑そうな色があった。
―何で、お前がこんなところにいる。
あたかも、そう言いたげな顔をしていた。
やすは亭主の分まで愛想良くふるまい、急いで三人分の夕飯を整える。
やがて、良い匂いのする夕餉が並んだ。箱膳の上には鹿肉の燻製、山菜のたっぷり入った味噌汁、飯がある。しかし、勘助がむっつりと黙り込み、ひたすら飯をかき込むだけなので、食卓はひどく気詰まりなものになった。
「疲れてるだろうから、早くお寝み」
やすは、その場の雰囲気をいかにしても取り繕えないと知ると、早々に千寿を奥の寝室に押し込んだ。
今夜だけは、勘助とやすが居間で寝るという。
やすが用意してくれた布団に潜り込んでも、千寿はなかなか寝付けなかった。やはり、出ていくべきだったのだ。勘助はやすとの暮らしにふいに入り込んできた闖入者をけして歓迎してはいない。むしろ、千寿は招かれざる客であった。帰ってきた勘助が千寿を見たときの眼を思い出すと、居たたまれなくなった。
それでも、半刻の中には眠りに落ちたらしい。うとうとと微睡んでいた千寿は、人声でハッと眼を覚ました。
「―止めなよ、そんなこと」
やすの声である。
千寿の意識ははっきりと覚醒した。今、何時なのかは判らないが、二人はまだ起きているようだ。話し声は障子一つ隔てた向こうから聞こえてくる。
「だが、あの娘っ子がいなくなっちまった姫さまだっていう可能性は限りなく高いと思うぜ」
続いて勘助の声が聞こえた。
「そんな―、そんなこと判りゃしないさ。確かに育ちの良さも窺えるし、気品なんてものもある娘(こ)だけど、着てるものだって上物じゃない、この辺の町娘が着てるようなものだったよ」
千寿は耳をそばだてた。城下の古着屋で着ていた小袖を売り、少々の路銀と代わりの粗末な着物を得た。きらびやかな小袖は、高く売れたのだ。やはり、用心には用心を重ねておいて良かったと思ったのも束の間。
勘助のだみ声がやすの話を遮った。
「さて、それはどうか。少し知恵の働く娘なら、着の身着のままで逃げるような馬鹿げた真似はしねえだろう。大方、どこかで着ていたものを売っ払ったに違えねえ。小賢しい小娘だ」
吐き捨てるように言う良人に、やすが言った。
「でもさ、もし、お前さんの言うように、あの娘がその長戸の姫さまだったとしても、何でみすみす木檜のお殿さまにあの娘を売るようなことをしなきゃならないの? あの子、まだ子どもだよ? 身体だって細くて、貧弱だ。木檜のお殿さまは、あんな子どもを毎夜、慰みものにしてるっていうじゃないか。奥方っていう名目はあったって、敗れた国の姫君をかっ攫ってきて、所詮は弄んでるだけじゃないか。あの娘は良い子だ、死んだおゆきに似てる。おゆきに似てるあの娘が好色なお殿さまの慰みものになってると考えただけで、あたしゃ、たまらないんだ」
「あの子は、おゆきじゃねえ」
そのひと言は、予想外にやすを打ちのめしたようだった。
「でも、お前さん。もし、あの娘があたしたちの子だったら、あんたは、あの子を女好きのお殿さまに差し出せるかい? おゆきだって、助平な男に良いように慰みものにされちまった。あたしゃ、おゆきと同じ年頃の子があの子のような辛い想いをするのを見たくはないんだ。あんな哀しい想いをするのは、こりごり」
やすの声が高くなる。
「しっ、声が高い。娘っ子が眼を覚ましちまうぞ」
勘助がたしなめた。
「とにかく、俺はこれから木檜城に行ってくる」
「お前さんッ。これだけ言っても、お前さんは判っちゃくれないんだね」
やすが悲鳴のような声を上げた。
「やす、おゆきが死ななきゃならなかったのは、俺たちが貧しかったからだ。俺ァ、おゆきを手籠めにしようとした男も憎いが、何より、貧乏が憎い。俺が怪我なんぞしなけりゃ、あいつは町に奉公に出ることもなかったんだ。金さえありゃア、おゆきは死なずに済んだんだ。侍だ武士だと幾ら威張っても、奴らが何をしてくれる? 殿さまが俺たちを一度でも助けてくれたか? あの娘っ子は生まれてから大きな城に住んで、何の不自由もなく育ってきた。おゆきの着たこともねえべべを着て、信じられねえようなご馳走を食べてよう」
「お前さん―」
やすの縋るような声に、勘助が憎々しげに言い放つ。
「元々、白鳥と木檜の間で戦が起きたのも、あの姫さまが原因だっていうじゃないか。あの姫さまさえ、木檜のお殿さまに素直に輿入れしてりゃア、今頃、白鳥の国も戦に敗れることもなかった。あの娘は、とんでもねえ親不孝者だぜ。あの姫さまの我がままが国を滅ぼし、両親を死に追いやったのさ」
「お前さん、それは言い過ぎだよ。姫さまのご両親だって、あんな可愛い子をみすみす残忍で好き者と評判の木檜のお殿さまになんかやりたくはなかったろう。あたしは、姫さまの親の気持ちはよく判るけど」
好色な主人はかねてからおゆきに眼をつけていた。ある夜、主人が自分の部屋に茶を運ぶように言いつけ、やって来たおゆきを手籠めにしようとしたのだ。むろん、おゆきは愕き、烈しく抵抗した。その際、揉み合っている中に、柱の角に頭をぶつけ、それが生命取りになったのだという。
―あたし、悔しくて。このまんま、誰も真実を知らないままじゃ、おゆきちゃんがあんまりにも可哀想だと思って、今日はここに来たんです。
きくは大粒の涙を流しながら、そう言った。
おゆきは生きていれば、もう十九になるそうだ。
千寿は、何と応えて良いものか判らなかった。ありきたりのどんな言葉も、安易な慰めにしかならないだろうと思い、ただ黙って、やすの話を聞くにとどめた。
「そうそう、明日の朝、あんたが出ていくときには、干し肉を少し持っていくと良いよ」
亡くなった娘の話を終えると、やすは思い出したように言った。
やすは、どうやら千寿が一泊すると決めているようであった。泊まっていけと勧めるやすに、千寿はありがたくその厚意に甘えることにした。二日間、森を歩き通しで正直、疲れ果てていた。夜は火を炊いて野宿をしたが、いつ山犬に襲われるかと思えば、怖くておちおち眠ることもできなかった。今夜だけでも安堵して床の中で眠ることができるのであれば、こんな幸せはない。
「成長期にはたっくさん食べとかないと、ほら、あたしのように出るところが出てこないよ? あんたは器量良しだから、もう少し身体つきが豊かになって女っぽくなったら、さぞかし男にモテるだろうね」
やすは半ば冗談のように言い、からからと明るく笑った。
やすは、少女のなりをしている千寿を女だと信じて疑ってはいない。この人の好い女房にはすべてを打ち明けたい想いになったけれど、千寿は寸でのところで思いとどまった。
やすが千寿の秘密を他言するとは思えないけれど、万が一、嘉瑛の追っ手がここを突き止めるようなことがあった時、何も事情を知らぬ方が、やすにとっては良いはずだ。知らなければ、何も応えようがない。
この人の好い優しい女をみすみす巻き添えにはしたくなかったのだ。
陽が落ちる頃になって、勘助が戻ってきた。 勘助は〝ただいま〟とも言わず、千寿を認めるとプイと奥の部屋に引っ込んだ。
その眼には明らかな迷惑そうな色があった。
―何で、お前がこんなところにいる。
あたかも、そう言いたげな顔をしていた。
やすは亭主の分まで愛想良くふるまい、急いで三人分の夕飯を整える。
やがて、良い匂いのする夕餉が並んだ。箱膳の上には鹿肉の燻製、山菜のたっぷり入った味噌汁、飯がある。しかし、勘助がむっつりと黙り込み、ひたすら飯をかき込むだけなので、食卓はひどく気詰まりなものになった。
「疲れてるだろうから、早くお寝み」
やすは、その場の雰囲気をいかにしても取り繕えないと知ると、早々に千寿を奥の寝室に押し込んだ。
今夜だけは、勘助とやすが居間で寝るという。
やすが用意してくれた布団に潜り込んでも、千寿はなかなか寝付けなかった。やはり、出ていくべきだったのだ。勘助はやすとの暮らしにふいに入り込んできた闖入者をけして歓迎してはいない。むしろ、千寿は招かれざる客であった。帰ってきた勘助が千寿を見たときの眼を思い出すと、居たたまれなくなった。
それでも、半刻の中には眠りに落ちたらしい。うとうとと微睡んでいた千寿は、人声でハッと眼を覚ました。
「―止めなよ、そんなこと」
やすの声である。
千寿の意識ははっきりと覚醒した。今、何時なのかは判らないが、二人はまだ起きているようだ。話し声は障子一つ隔てた向こうから聞こえてくる。
「だが、あの娘っ子がいなくなっちまった姫さまだっていう可能性は限りなく高いと思うぜ」
続いて勘助の声が聞こえた。
「そんな―、そんなこと判りゃしないさ。確かに育ちの良さも窺えるし、気品なんてものもある娘(こ)だけど、着てるものだって上物じゃない、この辺の町娘が着てるようなものだったよ」
千寿は耳をそばだてた。城下の古着屋で着ていた小袖を売り、少々の路銀と代わりの粗末な着物を得た。きらびやかな小袖は、高く売れたのだ。やはり、用心には用心を重ねておいて良かったと思ったのも束の間。
勘助のだみ声がやすの話を遮った。
「さて、それはどうか。少し知恵の働く娘なら、着の身着のままで逃げるような馬鹿げた真似はしねえだろう。大方、どこかで着ていたものを売っ払ったに違えねえ。小賢しい小娘だ」
吐き捨てるように言う良人に、やすが言った。
「でもさ、もし、お前さんの言うように、あの娘がその長戸の姫さまだったとしても、何でみすみす木檜のお殿さまにあの娘を売るようなことをしなきゃならないの? あの子、まだ子どもだよ? 身体だって細くて、貧弱だ。木檜のお殿さまは、あんな子どもを毎夜、慰みものにしてるっていうじゃないか。奥方っていう名目はあったって、敗れた国の姫君をかっ攫ってきて、所詮は弄んでるだけじゃないか。あの娘は良い子だ、死んだおゆきに似てる。おゆきに似てるあの娘が好色なお殿さまの慰みものになってると考えただけで、あたしゃ、たまらないんだ」
「あの子は、おゆきじゃねえ」
そのひと言は、予想外にやすを打ちのめしたようだった。
「でも、お前さん。もし、あの娘があたしたちの子だったら、あんたは、あの子を女好きのお殿さまに差し出せるかい? おゆきだって、助平な男に良いように慰みものにされちまった。あたしゃ、おゆきと同じ年頃の子があの子のような辛い想いをするのを見たくはないんだ。あんな哀しい想いをするのは、こりごり」
やすの声が高くなる。
「しっ、声が高い。娘っ子が眼を覚ましちまうぞ」
勘助がたしなめた。
「とにかく、俺はこれから木檜城に行ってくる」
「お前さんッ。これだけ言っても、お前さんは判っちゃくれないんだね」
やすが悲鳴のような声を上げた。
「やす、おゆきが死ななきゃならなかったのは、俺たちが貧しかったからだ。俺ァ、おゆきを手籠めにしようとした男も憎いが、何より、貧乏が憎い。俺が怪我なんぞしなけりゃ、あいつは町に奉公に出ることもなかったんだ。金さえありゃア、おゆきは死なずに済んだんだ。侍だ武士だと幾ら威張っても、奴らが何をしてくれる? 殿さまが俺たちを一度でも助けてくれたか? あの娘っ子は生まれてから大きな城に住んで、何の不自由もなく育ってきた。おゆきの着たこともねえべべを着て、信じられねえようなご馳走を食べてよう」
「お前さん―」
やすの縋るような声に、勘助が憎々しげに言い放つ。
「元々、白鳥と木檜の間で戦が起きたのも、あの姫さまが原因だっていうじゃないか。あの姫さまさえ、木檜のお殿さまに素直に輿入れしてりゃア、今頃、白鳥の国も戦に敗れることもなかった。あの娘は、とんでもねえ親不孝者だぜ。あの姫さまの我がままが国を滅ぼし、両親を死に追いやったのさ」
「お前さん、それは言い過ぎだよ。姫さまのご両親だって、あんな可愛い子をみすみす残忍で好き者と評判の木檜のお殿さまになんかやりたくはなかったろう。あたしは、姫さまの親の気持ちはよく判るけど」
作品名:龍虹記(りゅうこうき)~禁じられた恋~・其の三 作家名:東 めぐみ