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龍虹記(りゅうこうき)~禁じられた恋~・其の二

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 だが、それにも解せない部分はある。厠から出た姫がいつまで経っても部屋に戻ってこなければ、当然、控えの間に詰めていた侍女が不審に思うはずだ。
―そなたは奥方さまが厠よりお戻りにならるるところを確かめたのでありましょう?
 弥生は事件後、まだ若い侍女の茜に問うたが、茜は蒼い顔で身を縮めた。
―申し訳ござりませぬ。私、あまりに眠くて、ついほんの一刻だけうたた寝をしてしまったのでございます。
 それが、丁度、姫が厠に行った時間と符号しているという。つまり、姫が部屋を出たのを見送った茜は、再び厠から戻ってくるのは確認はしていなかったのである。
―愚かなことを。何ゆえ、奥方さまのお帰りになっておらるるかどうか、確かめておかなかったのじゃ。
 弥生は牢番を務める伊富恒吉の姉である。足軽大将の妻として、良人の間には三人の子どもたちがいたが、木檜城の奥向きに仕えて重きをなしていた。
―申し訳ございませぬ。
 十八になったばかりだという茜は新参者であった。姫が失踪したと判った時、城内は大騒動になった。その時、すぐにでもそのことを申し出たようとしたのだが、姫の姿を確認しなかったのは明らかな自分の落ち度であった。そのことを咎められるのが怖くて、つい言えずにいたのだと、茜は泣きながら打ち明けた。
 つまり、万寿姫は厠から自室に戻ってくることはなかったのだ。茜の告白で、すべては辻褄が合った。
 万寿姫のゆく方は杳として知れなかった。
 嘉瑛は大勢の家臣を手分けして捜索に当たらせたが、城下には一軒一軒しらみつぶしに当たっても、それらしい少女は見つからなかった。
 
 鬱蒼とした樹々が続く小道を千寿は懸命に歩いていた。真夏の盛りの今、森の植物たちは緑を青々と茂らせ、むせ返るような特有の匂いを発散させている。樹齢も定かではないような老いた巨木が身を寄せ合うように立ちはだかり、隙間なく重なり合った緑の葉は昼間でもなお、眩しい陽光を遮っている。
 道とは名ばかりの石ころだらけの地面を歩き通しで、千寿は疲れ果てていた。立ち止まって頭上を振り仰ぐと、濃い緑の梢がひろがっている。自然の天蓋のお陰で、真夏の昼間というのに空気はひんやりと冷たかった。そのまま立っていると、視界が緑一色に染まってしまいそうだ。
 いつも水汲みにきていた泉水は、とうに過ぎている。ここは同じ森でもかなり奥深く分け入った場所になる。木檜城を逃れた千寿が身を隠したのは、城の近くにひろがる森であった。どうせ千寿の脚では、まともに逃げてもすぐに捕まるだろうと思い、かえって近くに身を潜めることにしたのである。
 時折、涼しい風が梢を渡り、風に乗って鳥の声が聞こえてくる。再び歩き出した千寿はふと、水音が意外に近いことに気付いた。
 耳を澄ませながら、水音目指して歩いてゆく。水音は道の左方向から聞こえていた。千寿は道を逸れ、緑の繁みをかき分けるようにして歩いていった。ほどなく、鬱蒼とした樹々が途切れ、ぽっかりと視界が開けた。砂地のような粒子の細やか
な河原の向こうに、川が流れている。
 千寿は自ずと早足になった。
 草履を脱ぐと、やわらかな砂状の河原に脚を踏
み入れる。砂は太陽の熱に温められ、愕くほど熱
かった。河原にある手頃な石に腰掛け、そっと清
流に両脚を浸す。心地良い冷たさが、全身を生き
返らせてくれるようだ。
 脚を冷やしてから、今度は顔を洗い、両手で冷
たい水を掬って夢中で呑んだ。ひと心地ついた千
寿は背負ってきた風呂敷包みを降ろし、竹の皮で
包んだ握り飯を取り出す。脱出を決意してから三
度の食事のご飯の半分だけは残し、ひそかに取っ
ておいたのだ。持ってきたのは数個のお握り、こ
れだけでできるだけ長く食いつながなければなら
ない。
 城を出るときから、千寿は白鳥の国に帰るつも
りであった。今は城もなく、嘉瑛の支配下にあり、
かつて城のあった場所の近くに嘉瑛の乳母子だと
かいう武将が小さな館を建て、代官として国を治めていると聞く。
 白鳥の国に残る長戸氏一族はいない。傍系の一族も殆ど嘉瑛によって攻められ、殺されてしまったからだ。辛うじて残っているのは長戸嘉久(よしひさ)だけだ。嘉久は父通親の大叔父に当たり、もう七十近い高齢である。その名が示すごとく、長戸氏の中では唯一の裏切り者であった。
 嘉瑛が挙兵をした際、嘉久はすぐに木檜嘉瑛に寝返った。それまでは義久と名乗っていたのをわざわざ嘉瑛の片諱を取って〝嘉久〟と改名するほどであった。
 あんな男は長戸家の面汚しだと、滅多と他人の悪口を言わぬ父でさえもが詰った。昔から狡猾で、我が身を守るためであれば平然と味方を裏切ることのできる人物であることは周知の事実であったらしい。
 千寿は手許を見て、吐息を洩らす。残った握り飯は一個だけになった。夏のことゆえ、長持ちもしないし、第一、城を出て丸二日、森の中をあてどもなくさまよい続けている。森そのものは二日もあれば抜けられるが、今、森を出るのは危険すぎる。嘉瑛は当然ながら、千寿のゆく方を追っているだろう。森を出てのこのこと姿を現せば、捕まえて下さいと頼んでいるようなものだ。
 かといって、森の中でもまた常に危険と隣り合わせだ。獣もいるし、夜盗が時折出ることもあるというではないか。
 いつまで、このような逃避行を続ければ良いのだろうかと考えると、心細さに涙が出そうになる。幾ら気丈だとはいえ、まだ十五歳の少年にすぎないのだ。
 千寿が暗澹とした想いに耽っていると、背後で脚音が響いた。
 思わずビクリと身を竦める。
「あれま、旅のお人かえ」
 恐る恐る振り返ると、三十五、六の人の良さそうな女が立っていた。髪を後で一つにまとめ、布で包んでいる。その同じ布で拵えた粗末な小袖や前垂れを見る限り、この界隈に住む猟師の女房といった風に見えた。
 手桶を下げているところを見ると、水汲みに来たらしい。
 海芋の花のような美貌を誇った母勝子とは似ても似つかないが、丸い顔には優しげな微笑を湛えていて、それは何故か亡くなった母を千寿に思い出させた。
「ここいらではあまり見かけない顔だけど」
 女は警戒するような様子もなく、気軽に話しかけてきた。
「白鳥の国へ行く途中の旅にて、こうしていっとき、休んでおります」
 後から、余計なことを喋ったと後悔する。
 何も正直に話すことはないのだ。適当な出任せを口にすれば良いのに、千寿にはそれができないのだ。
 女は千寿の困惑など意に介さぬようで、人の好さげな顔を更に綻ばせた。
「それは大変だねえ。白鳥の国はまだここからじゃ、遠いもの。でも、何でわざわざ森を抜けて行こうと思ったの? 城下町から東へ行った方が近かったのに」
 木檜城を中心に大きな城下町がひろがっている。多くの領主が商人の自国への出入りを厳しく規制したのに対し、嘉瑛は他国の商人にも自国への出入りを許し、積極的に商業を奨励した。元々、白鳥と異なり、荒れ地の多い木檜では、農業よりも商業が盛んである。そのお陰で、木檜の城下町は定期的に市が立ち、あまたの人々が集って活気溢れていた。