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龍虹記(りゅうこうき)~禁じられた恋~・其の二

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 千寿は形式的に膝をいざり進めただけだった。嘉瑛と千寿は向かい合う形で、両者の間には少し距離がある。
「お万、俺の申すことが聞こえぬのかッ」
 嘉瑛が癇性に声を荒げた。
 千寿はやむなく立ち上がり、嘉瑛の側へと座った。
 と、嘉瑛は何やら不満げな面持ちだ。
「もっと俺の近くへ来い」
 嘉瑛は手を伸ばして千寿を引き寄せた。その肩を抱き寄せながら、酒臭い息を吹きかけてくる。
「のう、万よ。俺はそなたの最も望むものをそなたに与えてやりたい。そなたは何を望む?」
 唐突な問いかけに、千寿は首を緩く振った。
「私は何も欲しくはございませぬ」
 それは嘘だ。恐らく、千寿には未来永劫、手にすることはできないだろうもの。千寿が何よりも欲するのは自由であった。
 豪奢な鳥籠から出て、大空を自由に鳥のように翔けたい。そんな願いを口にすれば、嘉瑛がどのように怒るか知れたものではない。
「欲のないことだの。なよたけの月の姫は様々な物を欲しいと言うたぞ?」
「私は、かぐやの姫ではございませぬゆえ」
 千寿は真面目に応えたつもりであったが、何がおかしかったのか、嘉瑛は大声を上げて笑い出した。まるで気が触れたかのように高笑いする嘉瑛を、千寿は息を呑んで見つめた。
 これは、どうも良くない兆候のようだ。こんな風に異常なほど機嫌の良い後には、必ず不機嫌になることは判っている。
「お万、これへ」
 嘉瑛が差し招く。
 逡巡した表情の千寿に、嘉瑛は自分の膝を叩いた。そこに座れと言っているのだ。
 しかし、幾ら人払いをしているからとはいえ、誰かが来たら恥ずかしい。
 なおも千寿が躊躇っていると、嘉瑛は腕を伸ばして強引に千寿を膝にのせた。
「のう。お万。俺は、そなたがなよたけの月の姫のように思えてならぬのだ」
 いきなりなことを言われ、千寿は言葉に窮した。が、そんな千寿に頓着せず、嘉瑛はうわ言のように続ける。
「いつか、そなたが俺の手の届かぬ場所に還ってしまうのではないかと時折、無性に不安でたまらなくなる」
 嘉瑛が千寿の丈なす艶やかな黒髪に顔を埋めた。
「万、いや、千寿。俺の側から離れるな。俺を一人にするでない。なっ、今ここで約束せよ。千寿はどこにもゆかぬと」
 まるで童のように小指を差し出すのに、千寿は応えるすべを持たなかった。
 自由が欲しいとは言えずとも、ずっとこの男の側にいる―そんな約束だけはしたくない。
 もし、翼があれば、千寿はすぐにでもこの男の傍から羽ばたき、大空へと自由を求めて飛び立つに違いないだろう。 
 千寿の気性からして、そこまで自分の心を偽ることはできなかった。
 しかし、嘉瑛は千寿が素直に約束しなかったことに立腹したらしい。
 千寿の髪を掬い取っていたその手が次第に下に降りてきた。
 うなじに唇を這わせながら、着物の襟の合わせ目に骨太な手を入れる。千寿の小さな胸を、やや乱暴な仕種で揉みしだく。
 千寿は眼をしばたたいた。
「どうかそのぐらいでお許し下さいませ」
 涙が溢れそうだった。
 ひとたび機嫌を損じただけで、まるで懲らしめのように身体中を弄られるのだ。いや、もう少し経てば、この男はいつものように千寿を伴い閨に入るだろう。
―眠い。
 そう言った舌も乾かぬ間に、眠るどころか、いつもの夜より尚更烈しく責め立てられる。
 その間にも、千寿の胸を弄る嘉瑛の手はいっそう烈しさを増してくる。乳輪を円を描くようになぞられたり、時折はギュッと先端を押し潰すように押されたりする。
 千寿の中でやるせなさと哀しみがせめぎ合った。
 ふいに男の逞しい胸板を押し返し、千寿は逃れるように膝をすべり降りた。
 やっとの想いで部屋を出たその後ろで、閉めた襖に何かがぶつかり、落ちる音が聞こえた。続いて、ガチャンという瀬戸物の割れる音。
 多分、腹を立てた嘉瑛が銚子か杯を襖に投げつけたのだろう。
 怒り狂った嘉瑛が追いかけてくるかと思ったが、意外にも嘉瑛は来なかった。
 千寿は一人、控えの間から廊下へと出た。廊下から草履を突っかけ庭に降りると、涼しい夜風が千寿の髪を嬲った。
 夜気は昼間の暑熱を孕み、まだ生温かったが、庭先を渡る風はひんやりと心地良い。
 季節はいつしか初夏から夏へとうつろっている。花期の長いことで知られる海芋の花もとうに散った。白鳥の城が落ちてまだ三月(みつき)も経たぬというのに、もう随分と月日を数えた気がする。
 ほのかに藍色の滲む白く円い月を眺めながら、千寿は涙の滲んだ眼をそっと袂で押さえた。
―父上さま、母上さま、私はこんな辱めを受けてまで生きねばならぬのでございますか?
 心で亡き両親に呼びかけてみる。
 帰りたい、白鳥の国へ、生まれ育った故郷へと。
 月が愕くほど間近に迫って見えた。
 その蒼白い影の輪郭さえなぞれるのではないかと思うほどに近く、白んだ満月がほのかな光で地上を照らしている。
 千寿の思いつめたような横顔を、満ちた月が淡い宵闇の中に浮かび上がらせていた。 

 木檜城主木檜嘉瑛の奥方万寿姫の姿が忽然と消えたのは、その二日後の翌朝のことであった。
 その夜、嘉瑛はいつものように最愛の妻と濃密な夜を過ごし、至極満足した面持ちで表御殿に戻っていった。万寿姫の様子も別段、何ら不審な点はなかった―と、これはお付きの侍女たちが口を揃えて証言している。
 嘉瑛は狂ったように妻のゆく方を探し回ったが、それこそ美しい奥方は霞のようにかき消えてしまった。その朝、お付きの侍女の弥生が寝間を覗いた時、既に布団はもぬけの殻であった。嘉瑛は奥方と共に夜を過ごしてもこれだけは、律儀に陽が昇る前には起き出し、表に戻る。
 どれほど妻と閨で戯れようと、妻の部屋で寝過ごすといったことだけはなかった。ゆえに、その朝も嘉瑛が帰っていった後、万寿姫はしばらく一人で寝所で伏せっていた―と、誰もが思っていたのだ。奥方の寝室は三間続きの最奥であり、廊下に出るには居間、控えの間と通らなければならない。昼夜を問わず、控えの間には侍女が常に待機していた。
 それはむろん、長戸氏の血を引く姫の脱走を怖れ、良人嘉瑛が付けたものだ。護衛といえば聞こえは良いが、体の良い監視役である。
 では一体、姫はどこから外へと逃れたのか。それは当然の疑問ではあったが、直にその応えは知れた。その早朝、姫は厠にゆくと告げて一度、部屋を出ていっている。高貴な女人というのは厠でさえ一人ではゆかぬものだが、姫の場合、男であることが露見してはまずいので、侍女を近付けることはなかった。
 姫は厠の小窓から器用に抜け出したのだ。大の男であれば、まず通り抜けることは不可能だが、姫のように華奢で小柄な少女であれば、容易にそこから庭へと出られただろう。
 誰もが、狐につままれたような話だと真顔で言った。婚礼を迎える日まで泣いてばかりいたあのいかにも儚げな少女に、そのような大胆な仕業ができたのが俄には信じられなかったのだ。が、皆が万寿姫だと思い込んでいた少女が、実はその兄千寿丸である。少年の千寿にとっては、厠の小窓を使って脱出することなど容易いものであった。