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龍虹記(りゅうこうき)~禁じられた恋~・其の二

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「元々、俺は神も仏も信じてはおらぬ。そのような眼に見えぬものに一体、何のありがたみがある? 俺は自分の力とこの眼に見えるものしか信じぬ」
「厭だ、私は絶対に厭だ」
 こんな男の前で涙など見せたくないと思うのに、不覚にも涙が滲んできた。
 いつもは醒めた眼をした男の瞳の奥に、ぎらりと光るものがある。千寿は、その常とは異なる光が怖かった。
 いっそのこと生命を奪われるのであれば、怖れはしない。従容として死を受け入れ、父や母、妹の待つ浄土へと旅立つだろう。
 だが、この男は千寿に夜伽をせよ―と言っているのだ。妻としての本来の務めを果たせと。
 とはいっても、千寿にはその妻としての務め云々というものが今一つ判らない。一体何をすれば良いのか、どんなことをさせられるのかは想像もつかないのだ。
 知らないから、余計に怖い。千寿は溢れそうになる涙をそっと手のひらでぬぐった。
 そんな千寿を、嘉瑛は感情の読めぬ瞳で見つめていた。
「そなたは俺が天下人となるためには是が非でも必要な手駒なのだ。今、将軍家の血筋をも引く名門長戸家の姫を失うことは、俺にとって大変な損失になる。俺はどうでも、万寿姫の代わりになる姫が欲しい。さりながら、そのような妙齢の姫―、いや、長戸家直系の血を引く姫は最早、万寿姫しかおらぬのだ。それゆえ、そなたに一役買って貰うことにした」
 事もなげに言い放つ男を、千寿は怯えた眼で見つめた。
「だが、こうして見ると、そなたは万寿姫そのもの―いや、彼(か)の姫以上に美しいかもしれぬ。そのような女のなりをしておるそなたを見ると、何か妙な気持ちになってくる」
 口許を歪める独特の笑い方は、どうやらこの男の癖らしい。なまじ整った面立ちの男だげに、口の端だけを引きつらせたその笑いは、あまりにも禍々しく陰惨に見える。
 いつもより湿った声もまた薄気味悪い。
 千寿は呟きながら、後ずさった。
「いやだ、私は厭だ」
 怖かった、この男が無性に怖かった。嘉瑛に対して、ここまでの恐怖を感じたことはなかったのに。
 寒くもないのに、身体が戦慄く。両手で自分の身体をかき抱いた。
「どうした、怖いのか? 大丈夫だ。そなたが初めてなのは判っている。優しくしてやるから、怖がらなくて良い。初めは少し痛いかもしれぬが、直に良い気持ちになれる。明日からは夜が来るのが待ち遠しくてならぬほど、たっぷりと愉しませてやるさ」
「―?」
 千寿には、嘉瑛の言葉が全く理解できない。
 きょとんとした顔の千寿を見て、嘉瑛がいっそう愉しげに声を上げて笑う。
 これが、あの千寿を〝犬〟と蔑みを込めて呼び、打ったり蹴ったりした男と同じとは信じられない。まるで蕩けそうな表情で、千寿を見ている。その別人のような違いが、かえって怖かった。
「本当に可愛いな。千寿は」
 嘉瑛がふと笑いをおさめ、真顔になった。
 その変わり様も千寿にとってはまた不気味だった。
「さあ、良い加減にむずかるのは止めて、俺の意に従え。悪いようにはせぬ」
 伸びてきた手に手首をしっかりと摑まれ、千寿の唇から悲鳴が洩れる。
「や、止めろ。お前の両手は血に染まっている。穢れた手で私に触るな」
 千寿は男の手をふりほどこうとする。
「相変わらず威勢が良いことだ」
 馬鹿にしたように嘉瑛は鼻を鳴らした。
 その間に、いきなり掬い上げるように抱き上げられ、更に悲痛な声を上げた。
「何をするんだ、放せ、放せッ」
 千寿は猟師に捉えられた獲物のように、猛然と暴れた。
 と、いきなり頬を張られ、千寿は痛みに呻いた。感情を殺した男の瞳の中で、異様に輝く光があった。―それは、狂気の光だ。狂気を宿した粘着質な瞳がじいっと千寿を見下ろしている。
「俺の気が長くはないことは、そちもよく存じておろう。幾らそなたに惚れておるからといって、甘くは見ぬ方が良いぞ? どうしても俺に素直に抱かれぬというのであれば、少々手荒なこともせねばならぬ」
「―」
 そのまなざしのあまりの暗さ、声の不気味さに、千寿は息を呑んだ。
 まるで、地の底を這うような声だ。
 千寿が抵抗を止めたのに満足したように、嘉瑛が笑顔になる。
「判れば良いのだ。俺はそなたが気に入っている。できれば、痛い想いはさせとうはないからの」
 表情が変わると、声までもが変わる。
 しかし、この男は千寿の一体、何をどう気に入ったというのだろう。つい二日前までは、飼い犬のごとき扱いをしていたというのに。
 千寿を軽々と抱えた嘉瑛は、華奢な身体をそっと褥に横たえた。
「可愛い奴め」
 首筋に降るような口づけが落ちてくる。
 千寿は、あまりのおぞましさに顔を背けた。
 千寿のささやかな反抗が癇に障ったのか、嘉瑛が千寿の顔を両手で挟んだ。強引に仰向けると、顔を寄せてくる。
 唇を吸われ、千寿は泣き出したくなった。
 嘉瑛が千寿の唇を開かせようと、舌で押し入ってくる。頑なに拒んでいても、強引に押し入れられ、ぬめりとした舌で口の中を探られてゆく。歯茎を丹念になぞり、ついには男の舌が千寿の舌に絡みついた。
「―!!」
 千寿の瞳に大粒の涙が溢れた。
―どうして、自分はこんな辱めを受けねばならないのか。同じ男に、しかも父母や妹を殺した憎い敵に何故―。
 逃げようとしても、嘉瑛の舌は執拗に追いかけてくる。さんざん口の中を蹂躙された挙げ句、漸く男の貌が離れた。
 嘉瑛の手が前結びになった夜着の帯に掛かった。シュルシュルと妖しい音を立てて帯が解けてゆく。その音を聞いている中に、千寿の中の嘉瑛への恐怖と嫌悪が頂点に達した。
「いやだ、いやだーっ」
 千寿は首を振りながら、錦の褥から這い出た。
 たとえ殺されたって、厭なものは厭だ。
 こんな男に良いようにされてしまうのだけは、厭だ。
「待て、待たぬか」
 嘉瑛の声が追いかけてきたが、千寿は泣きながら寝所の襖を開けた。辛うじて通り抜けるほど空いた空間から、身をすべらせる。
 嘉瑛に背後から手を摑まれるも、すぐにふりほどく。何か武器になりそうなものを探しても、哀しいくらい何もない。
 その時、千寿の眼に映じたのは、ふた色の花―妹や母が愛した海芋の花であった。
 千寿は咄嗟に花器から海芋の花を全部引き抜くと、縦横無尽に振り回した。
 十本余りある海芋の花を束にして振り回されては、嘉瑛も迂闊に近付いてはこられない。
 嘉瑛が舌打ちを聞かせ、露骨に顔をしかめた。
 やたらと振り回している中に、海芋の花が一輪、また一輪と茎の途中からぽっきりと折れてゆく。千寿の眼に、無惨な姿となり果てた花たちが今の自分の姿と重なった。
 最後に残った一本を千寿から奪い取ると、嘉瑛が甲走った声で言った。
「全く、余計な手間ばかりかけさせる奴だ」
「お願いだから、こんなことは止めてくれ。私は―厭なんだ。私が眼触りだというのなら、ひと想いに殺しても良い。どんな残酷な殺し方でも構わないから、殺して貰った方が良い。だから、これだけは許して欲しい」
 千寿はしゃくり上げながら、部屋の隅へと後ずさる。
「殺したりするものか、そなたは俺の可愛い妻だ。これからは毎夜、たっぷりと閨で可愛がってやるさ」
 嘉瑛が熱にうかされたような口調で言った。