龍虹記(りゅうこうき)~禁じられた恋~・其の二
「さて、この俺さまを殴りつけた罰―と言いたいところだが、ここに眠るそなたの兄者に免じて、今日だけは特別に許そう」
「貴様、一体、何を―」
嘉瑛の言葉に不穏なものを感じ、千寿は問いただした。
先刻、この男は確かに〝そなたの兄者に免じて〟と言った。これは、どういうことなのだろう。
混乱する千寿に、嘉瑛は不敵な笑みを向けた。
「―判らぬか。見かけほどは聡くはないようだな。昨夜、木檜城で亡くなったのは、長戸家の姫ではない、兄の嫡男千寿丸だ」
「まさか、貴様」
千寿の顔が蒼褪めた。
その反応が愉しくてならないといった顔で、嘉瑛が声を上げて豪快に笑う。
「漸くお判りかな。流石は俺が妻にと見込んだだけはある、聡明な姫よ。楚々として美しいばかりでなく、頭の回転もすごぶる速い」
嘉瑛は低い声で嗤いながら、立ち上がった。
「心得ておくが良い。長戸通親の遺児、一子千寿丸は囚われの身を儚んで自害、見事な最後であった。葬儀は簡素に執り行い、二日後の万寿姫との祝言は予定どおりに盛大に行う」
血の気の引いた千寿丸の前で、襖が閉まった。
「馬鹿な」
千寿は呟きながら、その場にくずおれた。
「万寿、私は、どうしたら良い? このままあの卑劣な男の思うがままの傀儡(くぐつ)として偽りの生を―そなたの身代わりとして生きるしかないのか」
守るべき最愛の妹も失った今、自分がこの現世(うつしよ)にとどまっている理由は何もなくなった。自分も、そろそろ楽になっても良いのではないか。
そう思った時、
―どのようなことがあっても、必ず生き延びよ、千寿。
―この家を、長戸の家を頼むぞ。
父の今わのきわの言葉が耳奥でこだました。
両親に託されたのは何も妹だけではない。足利氏の流れをも汲む名門長戸家の血筋を守ることも託されたのだ。
己れの肩に背負った家の重みを、これほどまでにずっしりと感じたことはいまだかつてなかった。
―私は、まだ死ねぬのだな。
千寿は少し自嘲気味に心で呟いた。
だが、木檜嘉瑛という男の考えていることは、依然として判りかねた。
男の自分を万寿姫の身代わりに仕立て、一体、どうするつもりなのか。
男の心を計りかねたまま、千寿は妹の眠る枕辺に座る。
そっと顔にかけられた白い布をめくると、その表情はまるでただ眠っているかのように安らいでいて、〝万寿〟と呼べば、すぐにでも眼を開きそうにも見えた。
自害という言葉から、どれほど苦しみながら逝ったのかと想像していただけに、妹の安らかな死に顔はわずかながら、千寿の心を慰めてくれた。
掛け衾(ぶすま)の上には、ひとふりの懐剣が置いてあり、これは紛うことなく母勝子が妹に与えたものに相違ない。
黒塗りの鞘と柄に桜の蒔絵が施されており、見事なものだ。恐らく、妹は暁方見た夢のように、この懐剣で喉許をかき切ったのだろう。あの夢がまさしく真実であったと物語るかのように、万寿姫の細首に包帯が巻かれている。その姿が痛々しかった。
「何もできなかった兄を許してくれ。そなたの無念は、いつか必ずやこの兄が晴らす」
千寿は人さし指でそっと妹のすべらかな頬を撫でる。既に万寿姫の頬はゾッとするほど、冷たくなっていた。
その冷たさに、千寿は妹が眠っているのではなく、魂がさまよい出た抜け殻なのだと思い知らされたようだった。
―父上、母上。長戸の家は、この千寿が死力を尽くして守ります。万寿を守れなかったその分まで。
―万寿よ、せめてこれからは父上や母上の許で、何の愁いも哀しみもなく過ごしておくれ。
千寿は亡き両親とその許に旅立った妹に呟く。
生命を失った万寿姫の顔は、純白の花よりも更に白かった。それでも、大好きだった花に囲まれ、安らいだ顔で眼を閉じる妹は十分美しかった。その儚いほどの美しさが、今の千寿には無性に哀しかった。
その二日後、木檜の国の国主木檜嘉瑛と隣国の白鳥の国の先(さきの)国主長戸通親の娘万寿姫は盛大な華燭の典を挙げ、晴れて夫婦(めおと)となった。むろん、表向きは万寿姫と称しているのは、嘉瑛によって妹の身代わりを務めさせられた兄千寿丸である。
自害して果てた本当の万寿姫の亡骸は、兄千寿丸のものとしてひそかに葬られた。その葬儀は密葬として行われ、仮にも一国の領主の嫡男のものとしては、あまりにも簡素すぎるものであった。
とはいえ、白鳥の国は目下、木檜の国の属国として、嘉瑛の支配下となっている。千寿丸が前支配者の子に過ぎず、しかも敵国の囚われの身となっていたことを思えば、盛大な葬儀を営めなかったことも致し方なかった。
また、妹万寿姫の婚儀が三日後に控えているにも拘わらず、千寿丸は自ら生命を絶ったのである。木檜氏の重臣たちの中には、主君嘉瑛に婚儀を先延ばししてはと勧める者もいたが―、嘉瑛は断固としてその意思を貫いた。
この度、嘉瑛と婚儀を挙げた万寿姫の正体がそも誰かを知る者は木檜城には多くはない。万寿姫の死は直ちに秘せられ、厳重な箝口令が敷かれたからだ。
秘密を知るのは、万寿姫に仕えていたごく一部の侍女、また、数人の重臣のみと限られている。
婚儀は木檜城の本丸大広間で行われた。金屏風を背にして裃烏帽子姿の新郎と居並んだ初々しい新婦は幸菱を織り出した練り絹の白無垢に、綿帽子を目深に被っていた。よもや、この可憐な花嫁御寮が死んだ妹とすり替わった兄千寿丸だと思う者は一人としていなかった。
婚儀は夜、行われる。固めの杯を交わした後、新郎新婦は早々と席を立ち、列席した家臣一同が打ち集い、飲めや歌えやの祝宴になるのだ。
大広間から退出した千寿は、そのまま夜着に着替えて自室に戻った。本来ならば、この後、晴れて夫婦となった二人は奥御殿の寝所で初夜を迎えることになる。奥向きには、嘉瑛が渡った際、妻やあるいは側室と夜を過ごすための寝所がちゃんと用意されている。
しかし、男である千寿が嘉瑛と臥所を共にする必要はない。千寿は自分のために整えられた部屋に戻った。三間続きの居室は、最奥が寝室、真ん中が居間、更に廊下側が侍女たちの詰める控えの間となっている。
どうやら、ここは亡くなった万寿姫が使っていたものらしい。千寿は妹の身代わりゆえ、妹が使っていた部屋をそのまま使うのは道理ではあったが、十畳はある板敷きの間は、〝源氏物語〟の各場面を描いた几帳を初め、小さな文机の上には硯や筆まで用意されており、いかにも女性の住まいらしく瀟洒な飾りつけがなされていた。床の間には古今和歌集の一つが流麗な手蹟で描かれた掛け軸が掛かり、その手前には美濃焼の壺に紅海芋と白海芋のふた色の花が形良く活けられている。
違い棚には小ぶりの青磁の壺、蒔絵細工の文箱まで置かれている。
この部屋を見る限り、妹は男の自分とは異なり、この城では丁重な扱いを受けていたのだと判る。そのことは、千寿を少しだけホッとさせた。
奥の部屋に入ると、どっと疲れが出た。
作品名:龍虹記(りゅうこうき)~禁じられた恋~・其の二 作家名:東 めぐみ