龍虹記(りゅうこうき)~禁じられた恋~・其の二
「若、たとえ何があっても、耐えることだ。生命一つさえあれば、いつでもやり直しはできる。万寿姫おられぬ今となっては、長戸氏直系の血を引くのは若のみとなった。若さえ元気でいれば、いずれ、お家再興するのも夢ではない。御身、大切になされよ。何があっても、早まらず、生命だけは大切にな」
もしかしたら、この時、恒吉は遠からず千寿の身に起こるであろうことを漠然と予測していたのかもしれない。
主君嘉瑛が囚われの少年に向ける瞳の奥には、尋常ならざる光が宿っていることを見抜いていたのだろう。
―生命だけは大切になされよ。
くどいほど念を押し、恒吉は〝では、ご免〟と軽く頭を下げて走り去った。
「恒吉どの!」
何故かこのまま別れては二度と逢えぬような気がして、千寿が声を張り上げると、恒吉が立ち止まった。首だけねじ曲げて振り向いた男が叫んだ。
「今のは義兄弟の固めの杯の代わりよ。若、たといいかほど離れようと、これより我らは真の兄と弟じゃ。もし、若がお家再興を心から願うたときには、俺は必ずや若の許に馳せ参ずるぞ」
義兄弟の固めの儀式―というのが、先刻の抱擁であるとは、千寿にも判った。そのどこか言い訳めいた言葉が、そのときの恒吉の千寿への精一杯の意思表示だと、十五歳の千寿は気付くことはなかった。
伊富恒吉―後の伊富重(じゆう)吾郎(ごろう)克矩(かつのり)、生涯妻を娶らず、終始主君である千寿に影のように寄り添って生きた武将の若き日の姿であった。
千寿はその場に立ち尽くしたまま、恒吉の姿が夜の闇の向こうへと消えるのをいつまでも見送っていた。
妹の突然の死という事態を受け止め切れぬまま、千寿はひとたびは厩に戻った。考えねばならぬことは山のようにあったが、様々な考えがぐるぐると頭を忙しなく駆けめぐり、なかなか一つにまとまない。身体の方は疲れているのに、意識だけは妙に醒めた状態でうずたかく積んだ藁の寝床に転がっている中に、いつしか微睡んだらしい。
千寿は夢を見ていた。
白海芋の花が群れ咲く野原の中央に、妹がひっそりと佇んでいる。万寿姫は白い小袖を身に纏い、淡く微笑していた。
その手に握りしめられているのは、ひとふりの懐剣。そう、白鳥城が落ちる前、母が娘に託した守り刀である。
―姫、駄目だ。死んではならぬ。
千寿が声高く叫んでも、万寿姫はまるで聞こえてはおらぬように、懐剣の鞘を払う。
きらめく切っ先を白い喉許に当てた刹那、真っ赤な鮮血が辺りに飛び散り、白い花を禍々しいほどに不吉な紅色に染めた。
―何故、死に急ぐ。父上も母上も私たちに生きよ、生き延びて、この長戸家の血を後世に伝えよと仰せになったではないか。
声が嗄(か)れんばかりに呼びかける。
千寿は大粒の涙を零しながら妹に呼びかけるが、一面、血の色に染まった視界は、可愛い妹姫の姿を覆い隠してしまった。
それでも、千寿はそれが空しいことと知りながら、万寿姫の名を呼び続けた―。
その暁方、千寿は突如としてその身柄を拘束された。数人の物々しいいでたちの武将に囲まれ、連れてゆかれたのは木檜城の奥御殿だった。これまで一度として脚を踏み入れたことのない城は、白鳥城とは全く対照的で、外観からしてみても、見る者を威圧するかのような堅固な山城であった。小高い山の上に建つ城は、それ自体が自然の要塞でもある。
奥向きに連行された千寿は湯浴みをさせられ、大勢の侍女たちの手で磨き上げられた。
仮にもそろそろ元服を済ませようかという男子が、若い侍女たちに裸を見られるのは、耐えがたい羞恥心に襲われる。しかし、幾ら固辞しても、侍女たちは無表情に〝お館さまの仰せ〟と繰り返すだけで、後ろに引こうとはしなかった。
結局、湯殿で磨き立てられ、湯上がりにはきらびやかな紅い小袖まで着せられ、化粧まで施された。小袖は明らかに女物だ。
千寿は何度も抗議しようとしたが、侍女たちは端(はな)から相手にしてくれなかった。普段は結い上げている艶やかな髪を後ろへ解き流せば、鏡に映っているのは、よく見知った懐かしい妹そのものであった。
千寿の身支度が整った頃、部屋に嘉瑛がやって来た。
「これは何の茶番だ!」
千寿は丁寧な言葉を使うことも忘れ、怒鳴った。
「この私に、このような女のなりをさせて、これもまた余興のつもりか」
万寿姫の死からいまだ刻も経たぬのに、何という人の心を無視したふるまいだろう。
千寿の忍耐と怒りも限界にきているようだった。
「俺は何も茶番や余興のつもりで、このようなことを考えたつもりはない」
低い声で応えた嘉瑛に、千寿は縋るような眼を向けた。
「頼む、お願いだ。妹に、万寿にひとめで良いから逢わせてくれぬか」
千寿の懇願に、嘉瑛が立ち上がる。
背後の襖を音を立てて開けると、次の間はどうやら寝所らしかった。
昼なお障子を閉(た)て切った座敷に絹の夜具がのべられており、その褥に横たわるのは、今の我が身とうり二つの顔をした妹であった。
だが、今、その顔は白い布で覆われている。
「万寿!」
千寿は妹の側へと狂ったように走った。
「万寿、何故、このようなことに」
皆まで言えず、千寿は溢れる涙をぬぐいながら、悔しさをこらえた。
愕いたことに、妹の周囲は純白の花で埋め尽くされていた。白海芋の花だ。
「姫はこの花をこよなく愛しておったゆえ、冥土への旅立ちにはせめてこの花で見送ろうと思うてな」
意外な嘉瑛の配慮だった。
「かたじけない」
兄として、千寿は頭を下げた。
しかし、嘉瑛はにべもなく言い捨てた。
「俺は別に姫に惚れていたわけでも、気を惹かれていたわけでもない。いつぞやも申したが、いつも泣いてばかりいる、つまらぬ女であった。俺は何も女が美しければ良いというわけでもない。俺の好みは、そなたのような、打てば響くような女なのだ、それに眉目形も麗しく、なおかつ閨の中での身体の相性も良ければ尚更だな」
下品な言葉を平然と並べ立てる男に、千寿は猛烈な怒りを感じた。先刻、妹の好きだった白海芋の花を妹に手向けてくれたときに憶えた感謝の念など瞬時に消えてしまった。
「このようなときに、馬鹿げた戯れ言は止してくれ! 第一、私は女ではない。つまらないたわ言を耳にする気分ではないのだ」
だが、嘉瑛は千寿の言葉なぞ端から耳には入ってはおらぬ風で千寿を不躾に見つめ、うそぶいた。
「これは美しいな。万寿姫そのもの―、いや、姫以上に美しい」
千寿は嘉瑛に近付くと、手を振り上げ、その頬を思いきり張った。
「つまらない冗談は聞きたくないと言ったのが、貴様には判らないのか。木檜嘉瑛、そなたには一体、人の心というものが欠片(かけら)ほどでもあるのか? 貴様だとて、この世でただ一人の妹が亡くなった直後、そのようなたわ言を聞く気になれはすまい」
「さあて、それはどうかな。俺の兄も弟も生憎と自ら生命を絶ったわけではなく、この俺自身が手に掛けたのでな。そなたの気持ちなぞ、俺には判らぬ」
自ら血を分けた兄弟を殺した―と、しれっと言うこの男の神経はやはり、尋常ではないのだろう。
こんな男に所詮、人の情を説いたところで無駄というわけか。千寿が呆れたように見つめていると、嘉瑛が嗤った。
作品名:龍虹記(りゅうこうき)~禁じられた恋~・其の二 作家名:東 めぐみ