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龍虹記(りゅうこうき)~禁じられた恋~・其の二

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どんなことがあっても、妹だけは嘉瑛から守らなければならない。千寿は婚礼の直前、万寿姫を奪い返し、逃亡するつもりであった。
 突如として、右の頬に焼けつくような痛みを感じた。
「犬に情けも心も無用」
 今度は左の頬を思いきり張られる。
 千寿はよろめき、尻餅をついた。罪もなきものが死に逝く前で、何もなすすべがない自分があまりに不甲斐なく思え、千寿は受けた仕打ちよりも、その方が辛くやり切れなかった。
 嘉瑛は、ひっそりと涙を流す千寿をちらりと見やると、ひらりと愛馬に跨り、振り返りもせずに駆け去っていった。
 千寿は改めて、紅海芋の花畑を見つめた。半分以上は嘉瑛に花をもがれてしまったけれど、残りの花は幸いにしてまだ手付かずのまま、たおやかな花を咲かせている。
 震える手で子兎を抱き上げ、そっとやわらかな白い毛並みに頬ずりする。せめて浄土で永遠の眠りにつけるようにと、その亡骸は薄紅色の海芋の花が群れ咲く一角に葬った。


 
       宿命

 


 万寿姫と嘉瑛の婚礼もいよい三日後に控えたというある夜のことである。夜半、千寿はふと物々しい音に気付いて、めざめた。
 人声に混じって悲鳴や泣き声までも聞こえてくる。あれは、木檜城の奥御殿からではないか。察しをつけた千寿は飛び起き、厩から出た。厩は城門近くに建っている。伸び上がるようにして気配を窺っていると、若い男が急いだ様子で眼の前を走り過ぎるのに出くわした。
 千寿は慌てて、男を呼び止めた。
「もし」
 振り向いた男の貌に見憶えがあるどころか、男は牢内で瀕死の千寿を助けてくれた牢番の伊富(いとう)恒吉であった。恒吉の家は代々、牢番を務めてきて、武士としては最も耳分の低い足軽扱いであった。歳は二十三になるといい、兄のおらぬ千寿にとっては、いつしか頼もしい存在となっていた。
「おう、若か」
 恒吉はひそかに千寿のことを〝若〟と呼んでいる。
「恒吉どの」
 千寿は深々と一礼すると、問うた。
「何やら奥御殿の方が俄に騒がしき様子にござるが、何事か起こったのか」
「―」
 恒吉は話し好きの、明るい男であった。かといって、雑用でも黙々とこなす真面目さも併せ持ち、軽薄なわけでもなく、面倒見も良く年下の者たちからも兄貴分として慕われている。
 その恒吉がいつになく口ごもったのに、千寿は厭な予感に襲われた。
「何か―あったんだな」
 千寿は、恒吉を真っすぐ見つめた。
 背の高い恒吉と小柄な千寿ではかなり身長差があり、どうしても千寿は見上げる格好になってしまう。
「教えてくれ、恒吉どの。一体、何があったというんだ?」
 恒吉がふっと視線を逸らした。
「万寿姫が亡くなった」
「えっ」
 咄嗟に、千寿は何かの聞き違いかと思った。
「嘘だ、恒吉どのはまた、質(たち)の悪い冗談で私をからかっているんだな」
 だが、何よりも千寿自身が知っている。恒吉がそのような馬鹿げた不吉な戯れ言など口にするはずがないということを。
「なあ、恒吉どの。お願いだ、嘘だと言ってくれ。恒吉どの!」
 千寿の声が次第に高くなる。
 そんな千寿の肩を両手で押さえ、恒吉が真顔で首を振った。
「落ち着け、若。今、ここで若までが取り乱して、どうする。―残念だが、万寿姫が亡くなったのは、本当のことだ。そのため、今、城の奥向きは大騒動の真っ最中よ」
「だが、何ゆえ、あの子が―妹が亡くなったのだ。もしや、あの男、嘉瑛か? あやつが万寿を殺したのか?」
 息せききって問う千寿を痛ましげに見つめ、恒吉は静かに首を振った。
「いや、違う。姫はお館さまに殺されたのではない。自ら生命を絶たれたのだ」
「そんな―」
 千寿は言葉を失った。
 明日中にも、ひそかにつてを頼り、妹に文を届けようと思っていたのだ。奥向きに、おろくという十六になる婢女(はしため)がいる。どういうわけか、たまたま厩の近くを通りかかった際、千寿を見て恋に落ちたらしい。
 何かといえば、用もないのに、厩の近くをうろつき、千寿に色目を使ってくる。相手の気持ちを利用するようで気は進まなかったのだけれど、おろくに甘い言葉の一つ、二つ囁いて、奥向きにいる妹姫にまで文を届けて貰う手筈を整えていたのだ。
「遅かった」
 呟いた千寿を恒吉が怪訝そうに見つめた。
 千寿は初めて、恒吉に我が身の計画を打ち明けた。
「そうか、若はそこまで考えていたのか」
 恒吉は愕いたような顔で幾度も頷いた。
「私が悪いのだ。私がもう少し早く、妹に繋ぎを取っていれば、妹は死なずに済んだものを―」
 万寿姫が嘉瑛との婚礼を苦にして自害したのは明らかであった。
「もしや、万寿を無理にあの男が我が物としようとして―」
 嘉瑛ならば、やりかねない。残忍で無類の好色漢として知られている男だ。殊に、万寿姫は白海芋のごとしと謳われる美貌の持ち主、女好きの嘉瑛が待ちきれず、触手を伸ばしたとしても不思議はない。
「いや、奥向きに上がっている我が姉の話では、お館さまはいまだ姫さまに指一本お触れになってはおられぬそうだ」
 恒吉の姉弥生は木檜城の奥向きに侍女として仕えて長い。その分、奥御殿で顔もきき、恒吉は奥向きの内情に何かと詳しい。
 弥生は万寿姫の身の回りの世話を仰せつかり、常に万寿姫の側近くにいたはずである。その弥生の言葉であれば、信憑性は高いと見て良いだろう。嘉瑛が万寿姫と臥所を共にすれば、そのことをお付きの侍女である弥生が知らぬはずはない。
 どうやら、泉水のほとりで嘉瑛が言った婚礼まで待つという言葉は嘘ではなかったようだ。
「そうか」
 いずれにせよ、万寿姫は死んだのだ。
 あの無邪気で可愛い妹は、もうこの世にいない。
 千寿の脳裡に、妹の様々な表情が甦る。笑顔、泣き顔。十になる頃まで、いつも千寿の後をくっついて離れなかった妹。
「あの子は本当に泣き虫なんだ。最後の最後まで、泣いていたのだろうか」
 千寿の眼から涙の雫がころがり落ちた。
「せめてあの子に逢いたい。最後に抱きしめて、よく頑張ったねと言ってやりたい。恒吉どの、何とかして、妹に最後の別れを告げることはできないだろうか」
 哀しい想いをさせた。辛いことばかりで、死なせてしまった。兄として、自分は妹に何一つしてやれなかった。
「―気の毒なようだが、それは難しいだろうな」
 恒吉は呟くと、千寿を物言いたげに見つめた。
「それよりも、若。そなたの方こそ、身辺には気をつけろ」
「どういうことだ?」
 しかし、恒吉はそれには応えず、なおも千寿を見つめていた。かと思うと、ふわりと抱きしめられ、千寿は驚愕した。
「お前をいっそ、このまま連れて、俺たちを誰も知らぬ遠い場所に逃げたい」
「恒―吉どの?」
 予期せぬ囁きに、千寿は大きな瞳を見開く。
「さりながら、我が家はたとえ軽輩とはいえ、お館さまにお仕えしてきた。今は、それも叶わぬことじゃ。第一、若を連れて逃げたところで、即刻お館さまの手の者に捕まるのがオチだ。若、万が一、そなたが首尾ようここを逃れ、いつか長戸家再興の旗を揚げるときには、この俺を思い出してくれ。俺もそんな噂を聞けば、すぐにそなたの許に馳せ参じようぞ」
「恒吉どの」
 恒吉が想いを振り切るように、千寿から離れた。