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龍虹記(りゅうこうき)~禁じられた恋~・其の一

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 透明な水に入ると、気持ち良さげに手脚を伸ばした。折しも初夏の季節とて、小さな泉水の回りを取り囲むように紅海芋の花が群れ咲いていた。ここが千寿の最も好きな場所の一つの所以(ゆえん)である。ほんのりと色づいた筒状の花たちが一斉に今を盛りと咲き誇っている光景は、圧巻でさえある。紅海芋の花に混じって、薄蒼く染まった紫陽花も見られた。
 水に浸かりながら、紅海芋の花の園に取り囲まれていると、まるで夢の世界に遊んでいるようだ。時折、爽やかな風が水面を渡る度に、紅海芋の花がかすかにそよぎ、紫陽花の緑の繁みがさわさわと揺れた。
 たおやかでありながらも、己れを見失わず凜とした佇まいを見せる紅海芋の花は、亡き母勝子を彷彿とさせる。美貌を謳われながらも、けしていかなるときも信念を失わぬ芯の強い女性であった。
 妹の万寿姫は、容貌は母の美しさをそのまま受け継いでいるが、性格は全く違う。万寿姫の大人しやかな気性は、恐らく父ゆずりのものだろう。むしろ、千寿自身が容貌も勝ち気さも母のものをより強く受け継いでいるのだろうと思う。千寿もまた母に生き写しであった。もしかしたら、妹よりも千寿の方が更に母に似ているかもしれない。
 千寿は嫡男ゆえ、むしろ母の男勝りの部分を受け継いで良かったのだろう。ただ、この下克上の乱世では、男だけではなく女もまた強くあらねばならない。いつ、住み慣れた城が落ち、敵方に捕虜の身となるやもしれず、親や兄弟の言うがままに政略の道具として敵国へ嫁さねばならない。ひとたび嫁いで良人となっても、婚家が敵地である限り、良人に心を許さず、万が一には寝首をかく覚悟さえしておかなければならないのだ。
 果たして、あの気の弱い泣き虫の妹に、この苛酷な日々が耐えられるか、千寿はひたすら妹の身を思っていた。
 ざわりと、紫陽花の繁みが音を立てて揺れた。
 考え事に耽っていた千寿はハッとして、音の聞こえてきた方を見やる。
「誰?」
 誰何しても、返事があるはずもなく、小さな泉水の面に小さな波紋が幾つも浮かんでいるだけだ。
「風―」
 千寿は呟くと、急に身体が冷え切っていることに気付いた。まだ水無月初旬の水は冷たい。千寿はかすかに身を震わせると、陸(おか)へと上がり、身体についた水滴を手ぬぐいで丁寧に拭き取った。ふと背中に手を伸ばした時、小さな痛みを憶え、千寿は身動きを止めた。
 もう、痛むはずのない背中の傷痕は、何故か時折、ちくりと痛む。もしかしたら、それは心の痛みなのかもしれなかった。嘉瑛に捺された灼き印に触れる度、自分があの男の所有物だといやが上にも思い知らされ、耐えがたい屈辱に震えた。
 あろうことか、背中に捺された灼き印は、嘉瑛自身の花押を図案化したものであった。あの男は、自らの名を千寿の身体に刻印したのだ。この印は、未来永劫消えることはない。
 千寿の背中に自分の名をきっちりと刻み込むことにより、嘉瑛は千寿を生涯、飼い犬として繋ぎ止めることに成功したのだ。背中の紅い傷痕は嘉瑛への隷属の証であった。
 不覚にも滲んでしまった涙を堪(こら)え、千寿は手のひらでそっと涙をぬぐう。クシュンと小さなくしゃみをし、その清らかな肢体を汚れた小袖に包んだ。むろん、用心のために、土で適当に手脚を汚しておくことも忘れない。
 まさか、少し離れた場所―大木の陰から、千寿の白い裸身を執拗な視線で眺めている男がいることなど、そのときの千寿は想像だにしなかった。千寿が天秤棒を抱えて歩き始めた頃、その男―嘉瑛もまた脚音を殺して、その場から風のように去った。

 その二日後のこと、千寿はいつものように嘉瑛から遠乗りの伴を仰せつかった。遠乗りとは名ばかりで、その実は狩りである。
 いつもながら感じることではあったけれど、必要なために獲物を狩るのならともかく、無益な殺生をして何が面白いのだろうか。
 嘉瑛は愛馬の鹿毛に跨り、疾駆しながら器用に獲物に狙いを定める。狙った獲物を逃すことは全くない。背に負うた矢筒から一本の矢を取り出し、矢をつがえると、一撃でどんなに離れた獲物でも仕留める。
 その技は神業とでもいえるべきものであった。乗馬にしろ、弓矢、剣にしろ、嘉瑛が武術においては卓越していることは千寿も認めないわけにはゆかなかった。ただ、これだけの武芸の腕を持ちながら、どうして嘉瑛は、それを人のために活かさないのかと疑問に思わずにはいられない。罪なき動物や人間を屠るために、剣や弓の腕を使う必要はない。例えば、仕留めた獣をその場に置き去りにするのではなく、貧しい領民にその肉を分け与えるとか、そういった考えは浮かばないのだろうか。
 どうやら、嘉瑛は罪もない人間を切るのと同様、獣の生命を奪うことにも何の感慨もないらしい。仕留めた獣は息絶えたまま、その場に捨て置く。どうせ、すぐに山犬の餌食になるのは判っているのだから、持ち帰り、その日暮らすのもやっとという領民に与えてやれば、彼等はどれだけ助かるだろう。しかし、そんなことを口にでもすれば、たちまちにして、滅多打ちにされるのが関の山だった。
 その日、嘉瑛は何故か機嫌が悪かった。城を出るときから、何かに苛立っているようで、こんな状態のときには、長年仕えてきた重臣たちですら近付かない有り様だ。
 しかし、伴を命ぜられれば、従わぬわけにはゆかない。千寿はいつものように鹿毛に跨る嘉瑛の傍らを歩いた。嘉瑛は気紛れで、唐突に馬を勢いつけて走らせたりする。その度に、千寿は全速力で駆けねばならない。嘉瑛の伴をするようになって、脚だけは早くなっただろうと、千寿は妙なところで実感していた。
 嘉瑛は狩りを好み、ほぼ数日に一度は木檜城の近くの森まで鹿毛を走らせた。その日も泉水から汲んできた水と餌を馬に与え、更に馬の身体を丁寧に洗ってやっていたところに、嘉瑛がふらりと思い出したように現れた。
 何を思ったか、嘉瑛はその日、泉水の近くに向かった。泉水のほとりには相変わらず紅海芋の花たちがひそやかに咲いている。
「ホウ、これは見事なものだな」
 嘉瑛が珍しく感嘆の声を上げた。
 確かに、海芋の花は、見る者の心を癒やしてくれるような、そんな不思議な魅力があった。ましてや、一面を紅海芋の花が埋め尽くしている様は、さながら花の楽園、この世の浄土のようでもある。嘉瑛ほどの男でも、この光景を目の当たりにすれば、何かしら心に感じるものがあるのだろうか。
 花を眺める嘉瑛の横顔は、いつもと異なり、幾分、穏やかであった。
 嘉瑛がふと腰を屈め、一輪の紅海芋に手を伸ばした。
「あ―」
 声を出してしまってから、まずいと気付いても後のまつりである。
「何だ」
 案の定、嘉瑛がギロリと怖い眼で睨んだ。
「お館さま、折角きれいに咲いておるものゆえ、このままになさっておいた方が花も歓びましょう。ひとたび摘めば、紅海芋の花は一日と保ちませぬが、このままであれば、ひと月は見る者の眼を愉しませてくれまする」