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龍虹記(りゅうこうき)~禁じられた恋~・其の一

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 海芋とは不思議な花で、花期が非常に長い。毎日朝方開き、夕方には閉じるが、ほぼひと月にわたって咲き続ける花であった。このため、海芋の花は縁起が良いと、この近隣の国々では昔から言い伝えられ、子どもが生まれて初めて食べさせる物は海芋の実(地下になる実)をやわらかく煮て、すりおろしたものを使う。
 海芋の実は里芋に似ていて〝海芋〟という名は、実が里芋に似ていることから、つけられた。味の方は今一つではあるが、海芋の花期が長いことから、子どもの寿命が延びると言われているのだ。
 後で、千寿は我が身の迂闊さをどれほど後悔したか知れない。嘉瑛という男の怖ろしさをその身でいやというほど知り尽くしているはずなのに、何故、余計なことを言ってしまったのか。恐らく、幼い頃から慣れ親しんできた紅海芋の花を手折るに忍びないと思ってしまったからだろう。
 千寿が生まれ育った白鳥城の庭にも、海芋の花がたくさんあった。いや、白鳥の国にせよ、ここ木檜の国にせよ、この近辺諸国には海芋の花は圧倒的に多い。比較的、日常、よく見かける花だ。つまりは、その国に暮らす人々にとってもそれだけ馴染み深い花ともいえる。
 殊に、紅海芋は母のこよなく愛した花でもあった。
「ここの花があまりに見事ゆえ、万寿姫に持ち帰ってやろうと思うたのだが、それが、どうしたか」
 低い声で言われ、千寿はまたしても余計なことを言った。
「お館さま、我が妹は心優しき娘にて、摘まれた花を頂いたとしても、けして心より歓びはしませぬ。むしろ、摘まれた花の生命を不憫にも思い、泣きましょう」
 嘉瑛の眉間の皺が一段と深くなった。
「ええい、煩いッ。笑顔一つ見せたことなく、日がな泣いてばかりおる泣き人形のような姫に心なぞあるものか。貴様は、万寿姫の兄であろう、兄であれば、妹の心が判るはずだ。泣いてばかりおる、つまらぬ女だが、あんな女でも、取りあえずはこの国に馴染んで貰わねばならぬ。あの姫を笑わせるためには、どうすれば良いのだ」
―あなたご自身が無益な殺生をお止めになることこそが、万寿姫を歓ばせましょう。
 もし仮に嘉瑛が分別を備え、民を思いやることのできる男だったとしたら、父もまた二人の婚姻を快諾したはずだ。
 しかし、それは、いかにしても言葉にはできない。無言で立ち尽くす千寿の前で、嘉瑛が腰に佩いた剣の鞘を払った。
 この森はさして深くはないが、それでも最奥まで行って帰ってくれば、ゆうに二日はかかる。泉水のあるこの辺りはまだ入り口近くゆえ、重なり合った緑の樹々の隙間から、真昼間の陽光が差し込んでいた。そのかすかな陽の光を受けて、鈍いきらめきを放つ剣を嘉瑛が振り上げる。
―今度こそ、斬られる!
 千寿は思わず、咄嗟に眼を瞑った。
 が、いつまで経っても、斬られた様子はなかった。こわごわ眼を開くと、嘉瑛が暗い眼をして、紅海芋の野原を見つめていた。
「どいつもこいつも、口煩い奴らめが!」
 嘉瑛は喚き散らしながら、刀を縦横無尽に振り回す。その弾みで盛りと咲き誇った薄紅色の花たちが無惨にすっぽりと頭を落とした。嘉瑛は次々に花の首を落としてゆく。
 伝説の戦神と讃えられる嘉瑛は、実際に戦場へと出れば、このように刀を振り回して人の首を次々と落としてゆくのだろうか。もっとも、出陣の際、嘉瑛が必ず持参するのは、普段持ち歩いている刀ではなく、長刀である。
 千寿は、戦で馬に跨り、刀で敵将の首を薙ぎ払う嘉瑛の姿を今ここで見ているかのような気持ちになった。
 その時、運悪しく、紅海芋の花の向こう―嘉瑛からわずかに離れた前方に白い毛玉の塊が見えた。
―兎だ。
 千寿は思わず握りしめた拳に力を込めた。
 嘉瑛の双眸がぎらりと光った。
 まるで鷹が天空のはるか高みから、地上の獲物を見つけたときのような油断ならぬ光を放っている。
 嘉瑛が背中の矢筒から一本の矢を取り出した。
―危ない、逃げるんだ。
 千寿が咄嗟に心で叫んだのと嘉瑛が放った矢が兎に深々と命中したのは、ほぼ同時のことだ。
「犬、あれを持ってこい」
 命じられ、千寿は不承不承、倒れている兎の側までいった。白い兎はまだ子兎で、珍しいことに、嘉瑛の矢は兎の心ノ臓ではなく、前脚を貫いていた。普段であれば、まず一発で息の根を止めるのだが、流石に名手も今は心が乱れていたのか。
 抱き上げた子兎は、まだ息があった。適切な手当をしてやれば、生命は助かるだろう。
「いかがしたのだ、早うに持って参れ」
 嘉瑛の声が癇性に苛立ち、千寿はうなだれて兎を腕に抱いたまま引き返す。
「まだ生きておるのか」
 嘉瑛がつまらなさそうに言い、手を伸ばした。
「寄越せ。息の根を止めてやる」
 千寿はやわらかな子兎をひしと抱きしめ、涙ぐんで烈しく首を振った。
「俺の申すことが聞けぬというか、犬」
 嘉瑛の額に青筋がはっきりと浮かんだ。相当、機嫌の悪い証拠である。
「お館さま、この子兎にも親や兄弟がおりましょう。今なら、まだ手当をしてやれば、助かりまする。手当をすることが叶わぬと仰せなら、せめて、このままにしておいてやっては頂けませぬか」
 千寿は死をも覚悟で懇願した。
「ならぬ」
 嘉瑛は無情にひと言投げ捨て、顎をしゃくった。
「どうも、今日のそちは出すぎた物言いが多いようだの。犬は飼い主に忠実であれとあれほど申し渡しておったのを忘れ果てたか。貴様は敵将の遺児、俺がその気にならば、すぐにでも息の根を絶てることを忘れるな。兎の生命の心配よりは、己れの身の心配をするが良い」
「お館さま、私はもとより、この生命、惜しくなどござりませぬ。亡き父は落城の間際、叶う限り生きよと言い残しましたれど、罪なき生きものの生命を無益に奪う罪の片棒を担いでまで、おめおめと生き存えようとは思いませぬ」
「どこまでも、知った顔で理屈を並べ立てる奴よのう」
 嘉瑛は不快感を露わに呟いた。
「良かろう、犬の分際で主にそこまで楯突くとは、良い度胸だ。それでは、その兎を助けてやっても良い。だが、ただではならぬ。兎を助ける条件として、今宵、俺は万寿姫の部屋で過ごそう。そちは兄として、それを認めると申すのだな?」
「それは―あまりに、卑怯ではございませぬか」
 千寿の唇が小刻みに震える。
「妻に迎える女ゆえ、この俺が婚礼まで我慢してやっているのだ。さりながら、我が義兄上のお許しを得た上ならば、姫と臥所を共に致しても、いささかの不都合もなかろう。のう、義兄上どの?」
―お前に義兄(あに)上なぞと呼ばれる筋合いはない。
 いっそ、そう断じてやれば、どれだけ胸がすくような心地がするだろう。
 この男はやはり、冷酷な悪魔だ。
 千寿は唇を噛むと、涙をこらえて子兎を差し出した。我が意を得たりとばかりに、嘉瑛が兎の両耳を摑んで奪い取る。ほどなく、刃の切っ先が兎の小さな体を刺し貫き、子兎は血に染まって息絶えた。
―無力な私を許してくれ。
 千寿はうつむき、嗚咽を洩らすまいと歯を食いしばる。