龍虹記(りゅうこうき)~禁じられた恋~・其の一
「そなたは勘違いをしているようだ。男というものは刃向かわれれば刃向かわれるほど、逆に嬲り尽くし、とことんまで相手を貶めてやろうと残酷になるものだぞ?」
手応えを愉しむ顔つきで、嘉瑛は打ち伏したままの千寿を上から覗き込んだ。
「飼い犬は従順であらねばならぬ。そちももう少し、利口になって従順さを身につけた方が良いな」
〝気を失うたか〟と、いかにもつまらなさそうな呟きと共に、嘉瑛はもう千寿には興味を失った様子でさっさと牢を出てゆく。
嘉瑛の姿が見えなくなるや、一部始終を見ていた牢番たちが恐る恐る千寿に近寄ってきた。
「おい、死んだのか?」
「まさか、これくらいで死にはしないだろう」
二人は顔を見合わせると、どこからか冷たい水を汲んできて、水に浸した手ぬぐいで千寿の背中を冷やしてくれた。
辛うじて意識を保った状態で、千寿は牢番たちが代わる代わる背中を冷やし、最後に薬草をたっぷりと塗った上に包帯を巻いてくれたのを認識していた。いや、認識していたというよりは、どこかに別のもう一人の自分がいて、その別の自分が二人に介抱されている自分を眺めている―といった感じだった。
心だけが宙に浮かび、真上から介抱されている自分の抜け殻―身体を俯瞰しているとでもいえば良いのだろうか。
「それにしても、お館さまは怖ろしき方よ」
牢番の怖ろしげな呟きが、千寿の耳にはやけに遠く聞こえ、やがて、少年の意識は暗闇にすっぽりと呑み込まれた。
千寿はそれから半月間、死の淵をさ迷うことになった。背中にできた火傷が化膿し、高熱を発したのだ。牢番たちがひそかに傷の手当てをしてくれたお陰で、千寿は九死に一生を得た。
牢番たちは背中に張った薬草をこまめに取り替え、焼けるような高熱で喘ぐ千寿の唇に水を注ぎ込んだ。あの者たちの助けがなければ、千寿は間違いなく死んでいたはずだった。
ひとたび快方に向かってからの回復は早かった。元々、十五歳という健康な肉体を持つ少年は、見る間に健康を取り戻した。この頃から、千寿は再び、生きる気力を取り戻した。
というのも、すっかり顔馴染みになった牢番の一人恒吉(こうきち)から、木檜城の内情を知らされたからであった。
嘉瑛は自らが属国とした白鳥の国の国主長戸通親の娘万寿姫との婚礼を今月末に定めたという。城は今、その婚礼の支度で多忙を極めているということであった。久々に妹の動向を聞き、千寿の心に初めて生きるという二文字が浮かんだ。
むろん、たった一人の妹の存在を片時たりとも忘れたことはない。しかし、我が身のあまりの運命の激変に、十五歳の千寿はついてゆくだけで精一杯であった。
―姫を、そなたの妹を頼みますよ。
落城寸前の白鳥城から落ち延びる間際、母から託された妹であってみれば、何としてでも万寿姫だけは兄として守らねばならない。
―みすみす、あのような獣に大切な妹をくれてやるものか!
今ならば、嘉瑛の再三の結婚の申し出を父が断ったその理由を千寿も理解できた。
嘉瑛の所業は、気違いじみている。いつだったか、自分が近隣の村から攫ってきた妊婦を思いのままに陵辱した挙げ句、産み月も近いその腹を切り裂いたという実に陰惨な逸話まである男だ。果たして、その噂の真偽のほどは定かではないけれど、あの残虐な男であれば、そのようなことも平然とやってのけたとしても不思議ではない。
すっかり傷の癒えた千寿が地下牢から引き出されるときが来た。
―敵将の遺児なぞ、この際殺して、長戸氏の血を根絶やしにするべきですぞ。
そんな重臣たちの意見を無視し、嘉瑛は千寿を小姓として傍に置くことにしたのである。
―我がお館さまは軍略、戦に関しては天才的な閃きをお持ちになるが、やはり、真は阿呆ではないか。自らが攻め滅ぼした国の将の忘れ形見をお召し抱えになるとは、はてさて、怖れも知らぬ所業と申すか、無謀というにはあまりにも考えがなさすぎると申すか。
皆が陰でそう囁き合ったが、当の嘉瑛は平然としていた。
だが、嘉瑛が何を考えて千寿を側小姓に取り立てたのかは直に知れた。
要するに、千寿をひと思いに殺すよりは、側に置いてさんざんいたぶり、嬲ってやろうという魂胆であった。いかにも嘉瑛らしいといえば、彼らしいやり方ではあった。
食事は牢内にいたときよりは、随分とマシになり、薄い粥だけでなく、たまには魚や味噌汁がつくようになった。側小姓とはいっても、建て前だけのことで、現実には馬番である。夜は馬小屋に積まれた藁を褥にして眠り、嘉瑛が狩りにゆくときには、徒歩(かち)で付き従う。
厩の掃除をするため、千寿の小袖も袴も馬の糞尿の匂いが染みついてしまった。白鳥城を出るときに着の身着のままであったせいで、着替えもなく、ずっと同じ格好である。そのせいで、余計に垢まみれで、元は白い素肌が黒炭のように黒く汚れていた。
そんな薄汚れた身であってみれば、城中に脚を踏み入れることは到底叶わず、従って、妹万寿姫がどのような扱いを受けているのかまでは知ることはできなかった。
地下牢を出て以来、牢番の恒吉ともあまり顔を合わせる機会もない。
妹の身を案じながら、千寿は陽が昇る夜明け前には起き出し、馬に餌を与える。それから、近くの森までゆき、森の入り口近くにある泉水から水を汲み、厩まで運んだ。天秤棒に下げた桶二つを一杯にしても、幾度も往復せねばならず、正直、水汲みは千寿の仕事の中で最も辛いものであった。
何往復かを繰り返し、大きな水瓶がやっと一杯になる。その水は、一日の馬たちの飲み水ともなり、また馬の体を洗う際、厩の掃除にも使う。貴重な一日分の水である。
が、この仕事にはひそかな愉しみもある。ろくに風呂に入ることも叶わぬ身である。泉水の清らかな水に身を浸すことは何よりの気散じになった。だが、勝手に水浴びなどしているところを嘉瑛に見とがめられでもしたら、また半殺しの折檻を受けるかもしれない。
何しろ、あの男は癇性で、ただ虫の居所が悪いというだけの理由で、平気で他人を斬るのだ。そんな風にして無惨に殺された者を千寿は何人も見た。
城の奥向きに上がったばかりの若い娘が嘉瑛に見初められたことがある。が、その娘には既に許婚者がいたのだ。当然、娘は嘉瑛の寝所に侍ることを厭がり、結果として、嘉瑛は娘を無礼討ちと称して斬り捨てた。
千寿のすぐ前に小姓を務めていた少年は、茶を持ってこいと命じられ、運んできた茶が少々熱かっただけで、滅多打ちにされ、その怪我が元で亡くなった。
要するに、人の生命を奪うことに、いささかの心の痛みも感じない冷血で悪鬼のような男なのだ。
千寿は嘉瑛の前に出るときは、相当の気を遣った。ゆえに、いかに水汲みのついでに水浴びをするのだとしても、嘉瑛に知られないように気をつけた。折角汚れを落としたにも拘わらず、厩に戻る際には、再び泥を身体中になすりつけ、垢と馬の匂いがこびりついた着物を身につけて帰った。
ある日、千寿はいつものように水汲みに来た。泉水のほとりで着物と袴を脱ぎ、きちんと畳んで側に置く。
作品名:龍虹記(りゅうこうき)~禁じられた恋~・其の一 作家名:東 めぐみ