龍虹記(りゅうこうき)~禁じられた恋~・其の一
ある時、若い牢番二人がそっと背後を振り返りながら小声で囁き合った。
―それにしても、薄気味悪いガキだのう。普通、あのくらいの歳であれば、こんな陽の光も差さない牢屋に何日もぶち込まれたら、気が狂ってしまうだろうに。ああやって、日がな座り込んで、飯もろくすっぽ食うわけでもない。全く何を考えてるのか、底が知れないというか、空恐ろしいガキだぜ。
―うちのお館さまも怖ろしいお方だが、このガキもなかなか手強いこわっぱだなぁ。大抵、こんな年端もゆかない子どもなら、空きっ腹には負けて、飯に手を出すぜ。
そのときも、千寿は壁に背をもたせかけ、瞑想しているかの様子であった。
千寿の食事はいつも盆に載ったまま、運ばれたときの状態で返された。そんなことが何日続いたであろうか。地下牢に幽閉されてからというもの、日にちを数えることもしなくなった。そのため、正確には判らなかったが、既に十日近くにはなっていたはずだ。
ある日、牢の表が俄に騒然とした。牢番の狼狽えた声が聞こえ、千寿は薄く眼を開いた。
風呂に入って汚れを落とすこともないゆえ、まるで物乞いの子どものように薄汚れ、あの少女とも見紛う可憐な容貌は窺うすべもない。飲食物も絶って久しい千寿の意識は既に朦朧としていた。
意識を何とか保ち、注意力を人声の聞こえてくる方に向ける。牢番が鍵を開ける音、次いでギィーと軋んだ音と共に格子戸が開いた。
端座し自分の方を無心な瞳で見上げる千寿を、嘉瑛は薄気味悪いものでも見るかのように見下ろした。
「何という強情者だ。あまたの者にこの地下牢でそなたと同じ待遇を与えたが、大概はどんなに意地を張っても、せいぜい二、三日しか保たぬ」
突如として強い力で蹴り上げられ、千寿の華奢な身体がユラリと傾ぐ。それでも唇を固く引き結んでいる様を見、更に力を込めて蹴ると、今度は呆気なく千寿は前に倒れた。
「フン、口ほどにもない奴めが」
嘉瑛は千寿の頭を草履で踏みつけた。
「俺が憎いか? 殺したいほど憎いか? だが、俺を殺すためには、そなたはまずこの場を凌がねばならぬぞ。生きるためには飯を食べねばならぬ。のう、そうではないか?」
ゆっくりと幼子に語りかけるかのような優しげな口調で語りかけながらも、嘉瑛は力を込めて脚を千寿の頭上で動かす。脚先でこづき回され、千寿の口から思わず〝くっ〟と呻き声が洩れた。
「牢番、粥をこれへ」
嘉瑛が顎をしゃくる。半刻余り前に運ばれ、いまだ一切手を付けられてはおらぬ粥を持ってこさせた。嘉瑛はやおらその粥をひと口含むと、千寿の上に覆い被さる。
両手を持ち上げた格好でその場に仰のけられ、千寿は眼を見開いた。次の瞬間、千寿は一体、何が起こったのか把握できなかった。
嘉瑛の顔がなおいっそう近付いたかと思うと、いきなり唇が重なったのである。重なった相手から口移しで千寿の口中に粥が流れ込んできて、千寿は身を強ばらせた。
―この男は一体、何を考えている―?
愕きと混乱のあまり、千寿は流し込まれた粥を呑み下すことも忘れ、烈しくむせた。
漸く我に返った千寿は両手にありったけの力を込め、嘉瑛の屈強な身体を突き飛ばした。
「何をするッ。私に触れるな」
千寿は口に残ったわずかな粥を唾液と共に、眼の前の男向かってペッと吐き出した。
こんな卑劣な男に唇で触れられたと思っただけで、あまりのおぞましさと嫌悪感に鳥肌が立つ。
「まだ子どもながら、その意思の強さは天晴れ、見上げたものよと賞めてやりたいが、俺は先日も申したように取り澄ました顔をしている輩が生憎と虫酸が走るほど嫌いなのだ。見せしめに、そちには何か仕置きをして、その強情さを直してやらねばならぬであろうな」
嘉瑛は別段怒った風もなく、淡々と言いながら、頬にかかった唾液を無造作に手の甲でぬぐった。
「牢番、あれを持て」
嘉瑛が再度ぞんざいに顎をしゃくると、後ろに控えた二人の牢番の中、一人が慌ててどこかにいった。ほどなく戻ってきた牢番が嘉瑛の膝許に畏まる。
「お前らは、この小僧を押さえておれ」
嘉瑛のひと声で、牢番の二人が千寿の身体を上から押さえ込んだ。
「な、何をするッ。放せ」
千寿は驚愕し、渾身の力で暴れたが、大の男二人に両手と両脚を押さえ込まれていては、身動きもままならない。
「さて、犬の調教もなかなか骨が折れるものよ」
嘉瑛は愉しげに言い、牢番が運んできたばかりのそれを手に取った。丁度、大人であれば両手でひと抱えできるほどの鉄製の器から取り上げたものは―、真っ赤に染まった鉄(てつ)鏝(ごて)であった。
「―!」
流石に気丈な千寿も息を呑んだ。
「いかに意地を張り通してみても、流石に怖いか? 今ならまだ間に合うぞ? 俺の脚許に這いつくばり、申し訳ございませんと詫びれば、仕置きだけはこらえてやろう。犬ならば犬らしう素直に飼い主の言葉に従えば、むやみに痛い想いをする必要もなかろう」
「構わぬ、好きにするが良い」
千寿が素っ気なく言い、プイと顔を背ける。
平静であった嘉瑛の顔が朱に染まった。
まるで彼自身が手にした鉄鏝のように、怒りに顔を紅く染めている。
「なるほど」
呟くと、嘉瑛はいきなり千寿の着ている汚れた小袖の前を乱暴に引き裂いた。
それは脱がせるというよりは、破るといった方が良い荒々しさであった。上半身、裸になった千寿の白い身体を一瞬、嘉瑛が眼を奪われたように見つめた。
なめらかな白磁のような膚は傷一つなく、まだ少年期の清らかで初々しい肢体は、胸の膨らみこそないが、成長前の少女を彷彿とさせる。しばらく見惚(みと)れたように千寿の身体を見つめていた嘉瑛がハッとした表情になった。
眼顔で二人の牢番に合図すると、二人は心得顔で千寿の身体をまるで餅でも引っ繰り返すように呆気なく裏返した。
顔を床に押しつけられるという実に屈辱的な格好でうつ伏せになった千寿は、これまで以上に抗った。
「止めろッ」
千寿は依然として二人の男たちに一切の自由を奪われたままの状態である。
嘉瑛が熱した鉄鏝を千寿の白い背中に押し当てた。
「―!!」
一瞬、ジュッと何とも耳障りな音がして、肉が焼けた。千寿は思わず耐えがたい激痛とひりつくような感覚に小さな呻きを洩らし、顔をしかめた。
背中が燃えるように熱い。それでも、気丈にも涙を見せまいと、必死で唇を噛みしめる。あまりに強く噛んだので、内側が切れたのか、鉄錆びた血の臭いが口中にひろがった。
「ホウ、これはまた、気丈なことだ。これほどの拷問を受けても、涙ひと粒見せぬとは」
苦悶を堪(こら)える千寿を、嘉瑛は真上から眼を眇めて眺めていた。その眼は何ものかに憑かれたような光を宿し炯々と輝いている。まさに、狂気に囚われた者の瞳そのものであった。
唇を噛みしめて痛みに耐えている千寿の背中に、更に強く鉄の塊が押しつけられる。
「う、うわぁー」
ついに千寿はたまぎるような悲鳴を上げた。
嘉瑛は、千寿の反応を確かめるかのように、手にした鉄鏝をゆっくりと動かす。千寿はしばらく呻き声を上げていたが、やがて、そのか細い首がカクンと床に落ちた。
あまりに烈しい痛みに、気を失ったのだ。
作品名:龍虹記(りゅうこうき)~禁じられた恋~・其の一 作家名:東 めぐみ