龍虹記(りゅうこうき)~禁じられた恋~・其の一
口々に誰かが何か話しているのが遠く聞こえてくるようだ。
実は千寿を取り囲み覗き込む家臣たちの声であったのだが、その声もやがて千寿の耳には届かなくなった。
木檜嘉瑛は怖ろしい男であった。彼が近隣諸国の武将だけでなく、家臣たちからも怖れられるのには、まずは彼の生い立ちから語らねばならない。
嘉瑛には二人の兄と一人の弟がいた。その中(うち)、次兄は早くに病死している。嘉瑛は残る二人の兄弟をことごとく殺している。いや、彼が手を掛けたのは同胞(はらから)だけではなく、実の父をもであった。十九歳の折、父が何かと素行に問題の多い自分をひそかに抹殺しようとしているのを知り、先手を取って、これを阻止したばかりか、父を領内の寺に幽閉した。
彼の父は病死ということにはなっているが、そんなことを信じている者は家臣たちの中には一人もいない。恐らくは嘉瑛が父の食べる食事に毒を盛ったのではないか―と、囁かれていた。というのも、彼の父の死に方は尋常ではなかったからだ。その死に様は苦悶に歪み、身体中に服毒死によることを示す赤い斑点、即ち中毒症状が出ていたという。
父を殺した後、嘉瑛は重臣たちを押し切って家督を継ぎ、木檜の国の国主となる。それから、次々と邪魔者を消していった。まず、生意気で嘉瑛を眼の仇にしていた弟を夜半、その屋敷に押し入り、嘉瑛自らが討ち取った。その三ヵ月後には、病と称して城の奥深くに引きこもり、見舞いにきた兄を彼の近習が斬った。兄と弟を成敗した理由は、いずれも国主への謀反であった。
弟の方はともかく、八つ違いの異母兄は思慮深く控えめな人物で、父にも見放された嘉瑛を弟として可愛がってくれた兄であった。間違っても謀反など企む人ではなかった。が、嘉瑛はこの優しい兄までを自ら手に掛け、葬った。先に殺した四つ下の弟は同母弟であった―。既にこの時、彼等の生母が亡くなっていたのは、かえって幸せなことだったかもしれない。
こうして血で血を洗う殺戮を重ね、嘉瑛は現在の木檜の国の領主としての地位を不動にした。以後は、ひたすら他国に戦を仕掛けては、そのすべてに勝ちを収めてきたという強者(つわもの)である。この頃から、諸将は彼を戦神と呼び、怖れるようになった。返り血を全身に浴びながらも、愛馬を狩り、いつも戦場では手放すことのない長刀を縦横無尽にふるうその凄惨な姿は、さながら不吉な死に神が大鎌をふるうのにも似ていた。
そのいかにも怖ろしげな姿は、一度見たなら、けして忘れられぬとまでいう。
その嘉瑛が何故、長戸家に眼を付けたのか。それは、嘉瑛自身が語っていたように、長戸家が室町幕府を開いた足利将軍家の血を汲む名門ゆえだ。木檜氏は彼の父嘉治の父―つまり祖父の嘉哲(よしあき)が興したにすぎず、嘉哲は元を正せば油売りにすぎなかった。つまり、一介の行商人が当時、木檜の国の国主であった内藤氏に取り入り、家臣の一人に取り立てられたことから木檜氏の歴史が始まる。嘉哲は城に出入りする御用商人であった。
まさに彼の祖父自身が下克上―家臣が主君を討って成り代わるという一大クーデター―を地でいったような男であった。嘉哲は主君を殺し、自分が国主となり、更にその息子が国主の座を引き継いだ。そして、三代めの嘉瑛の代で再び血で血を洗う悲劇が繰り返されたのである。しかも今回は一族内での騒動であった。
要するに、木檜氏は他氏のような連綿と続く由緒ある武門の家柄ではない。そこで、嘉瑛は隣国白鳥の国長戸氏の姫に眼をつけた。長戸通親の娘万寿姫の美貌は白海芋のごとしとは、早くから諸国で囁き続けられていた。純白の花のように清楚で可憐、たおやかな姫であれば、誰もが手に入れたいと願っていた高嶺の花だったのである。
万寿姫を手に入れれば、期せずして名門長戸氏の血をも木檜氏の中に入れることができるというものだ。万寿姫を妻として、子を生ませれば、二人の間に生まれた子は足利将軍家の血を引く子となる。これこそが、嘉瑛が万寿姫を欲した最大の理由であった、嘉瑛はいずれ京に上り、没落した将軍家に成り代わり、天下に号令せんとの野心を持っている。
とはいえ、いかにせん、嘉瑛自身は祖父は油売りの成り上がり者である。だが、そこに彼が名門の姫を妻として迎え、その姫が嘉瑛の子を生めば、どうだろう。嘉瑛は万寿姫の生んだ我が子を次の将軍とし、自分はその後見として権力を一手に握ろうと画策していた。現在、細々とはいえ、京都にはまだ足利将軍家が存在している。
たとえ飾り物になり果てたとはいえ、尊氏から始まったこの由緒ある将軍家に忠誠を誓う者も多いこの時世では、強引に将軍を廃嫡するよりは、次の将軍たるべき正当性を持つ人物を担ぎ上げ、自分がその後見に立って傀儡の将軍を操った方が利口だと、嘉瑛は考えたのだ。
その布石として、まず長戸通親に再三書状を送り、万寿姫を妻に申し受けたいと頼んだにも拘わらず、通親はついに最後まで諾とは言わなかった。気の短い嘉瑛としては、これでも長く待ったつもりだった。
正室として迎える万寿姫にはまず、嘉瑛の子を生ませねばならない。女など抱いてしまえばそれで終わりだ、殊に万寿姫と臥所を共にする目的は足利将軍家の血を引く子、しかも男子を誕生させるための手段にすぎない。そう考えている嘉瑛ではあるが、意外に妻とはそれなりに心を通わせたいという人間らしさも持ち合わせていた。
それは、彼の両親が長らく不仲であったことにも起因しているだろう。彼の母は重臣の娘であったが、嘉瑛が物心ついた頃にはもう夫婦仲は険悪で、父は他の側室たちと戯れてばかりいた。母はいつも自分は不幸だとくどいほどに零していた。不幸だ不幸だと愚痴ってばかりいるから、余計に父に嫌われるのだと言ってやりたかったけれど、そんなことを言えば余計に母がヒステリックに泣き喚くので、言わなかった。
彼の脳裡には、いまだに母の沈んだ横顔が灼きついている。彼自身、時々、自分のこの異常とも思える性格は、幼時に起因するものではないかと思うことがあった。
それはともかく、嘉瑛が隣国白鳥の国に眼を付けたのは、そのような経緯があった。また、白鳥の国は土地も肥沃で、農作物の実りも多い。嘉瑛だけでなく、手に入れたいと虎視眈々狙っていた武将は少なくはなかった。
烙印
重臣たちの居並ぶ面前で気を失った千寿は嘉瑛の命により、そのまま城の地下牢へに投げ込まれた。相変わらず日に三度の食事は運ばれるものの、粗末な粥と水だけだ。それは生命を繋ぐ最低限のものにすぎなかった。
だが、千寿はその食事と呼ぶこともできないような代物さえ、一切手を付けようとしない。当然のことながら、千寿は日毎に衰弱していった。それでも、千寿は弱音を吐くこともなく、ましてや空腹など感じさせぬ恬淡とした様子で座っていた。陽も差さぬ薄い闇がひろがる中、石壁にもたれかかり、何を考えているのか眼を瞑ったまま刻を過ごしている。
狭い牢内は燭台の蝋燭の灯りで辛うじて物の文目を判別できる程度のものである。牢の前には常時、一人ないしは二人の見張りが付けられたが、千寿は至って大人しく、暴れるようなことはなかった。
作品名:龍虹記(りゅうこうき)~禁じられた恋~・其の一 作家名:東 めぐみ