龍虹記(りゅうこうき)~禁じられた恋~・其の一
通親は千寿が物心つく前から、人と人の心を結ぶために使うのは刃ではなく、真心なのだと教えてきた。今はまだ戦国の世で、どれほど屍の山を築いたかで武将としての価値が問われるような時代だけれど、いつかきっと近い中に天下を統一し、この荒ぶる世を鎮める真の英雄が現れるに違いない―と。
―殺した者の数ではなく、人の心をどれだけ惹きつけることができるかどうかで、その武将の本当の強さというものを計るんだ。
それが、通親がたった一人の嫡男に伝え続けてきた教えであった。
「千寿、そなたはここで父や母と共に死ぬには及ばぬ」
通親がひと息に言い切ったその刹那、千寿の黒い瞳が大きく見開かれた。
「父上、それは!」
千寿の幼さを残す顔には、当惑と哀しみがまざまざと表れていた。無理もない、たった今、この瞬間まで、千寿は両親と共に紅蓮の焔の中で死ぬのだと思い込んでいたのだ。
通親はかすかに笑むと、二人の我が子を片方ずつの手でそっと引き寄せた。
「どのようなことがあっても必ず生き延びよ、千寿」
「さりながら、武門の家に生まれた男子たる者、たとえ幼き身といえども、万が一の場合起こりしときには潔く死ぬるべしと父上はこの私に仰せられていたではございませぬか」
千寿が抗議するような口調で叫んだ。
「父上さま、私も兄(あに)さまと同じ気持ちでございます。どうか、私どもも父上さまや母上さまと共にお連れ下さいませ」
万寿姫も千寿と口を揃え、通親に縋るような眼を向けた。
「それはならぬ、姫」
通親は、万寿姫をやんわりとたしなめた。
「そなたには、この長戸家の血を後に伝えるという大切な使命がある」
「では、父上さまは、この私に残忍で夜叉のような男だと評判の木檜嘉瑛のものになれと仰せにございますか?」
万寿姫が絶望のあまり、悲鳴のような声を上げた。一つ違いの兄とそっくりなこの姫は、可憐な桜色の唇を震わせた。
「姫、落ち着いてよく聞きなさい。いつかは姫にふさわしき男が姫の前に現れよう、その日まではひたすら身を隠して生き延びるのだ」
通親が万寿姫の髪を愛おしげに撫でた。
「千寿よ、姫を―妹を、そして、この長戸の家を頼むぞ」
千寿はよりいっそう強く唇を噛みしめる。
父の穏やかな面には既に諦観の色が濃く滲んでいた。滅多と怒ることも感情を露わにすることもない人だが、ひとたびこうと決めたことは、最後まで貫き通す確固とした意思を持つ男なのだ。最早、千寿が何をどう言おうと、父を翻意させることは不可能だと判った。
「万寿」
それまで親子の語らいをずっと見守っていた勝子が漸く口を開いた。
万寿姫が勝子の方を見る。
勝子は万寿姫の前へつっと膝をいざり進め、懐からそっとひとふりの懐剣を取り出した。
「そなたは、これをお持ちなさい」
「母上さま、これは―」
物問いたげに見上げる娘に、勝子は頷いた。
「これは私が京の都より嫁いで参った折、私の母、つまり、そなたの祖母(ばば)さまに賜ったものじゃ。この懐剣は守り刀でもある。これよりは後、そなたの身を守ってくれよう。もしものときには、これを使いなされ」
もしものとき―とは、即ち、何ものかによって辱められるような事態に陥った場合、その前に潔く自ら生命を絶てと暗に言っているのだ。
だが、それは十四歳の少女にとって、いかほど酷(むご)いことだろう。
―父上も母上も、この期に及んでそのようなことを仰せになられるほどであれば、いっそのこと、万寿を共にお連れになられれば良いのに。
千寿は思わずにはいられない。父や母と共に黄泉路に旅立てば、万寿姫は誰にその身を穢されることもない。
その想いは、妹姫も同じだったようだ。
万寿姫が烈しく泣きじゃくった。
「父上さま、母上さま。どうか、万寿もお連れ下さいませ! 万寿は一人では淋しうございます」
勝子が幼児を宥めるような優しげに言った。
「一人ではない。兄上がいます。千寿丸は殿に似て心優しく頼もしき兄じゃ。そなたの身に危険が及びそうになったときには、楯となり、そなたを守ってくれようぞ」
「さあ、ゆくのだ」
通親が二人の身体からそっと手を放した。
「二人共に侍女の着物に着替え、身をやつして落ち延びるが良い」
いつ用意したものか、勝子が立ち上がり、粗末な小袖を二人分持ってきた。
流石に千寿はそれに着替えることはせず、被衣だけを被るにとどめた。今一度、ひと組の親子は最後の抱擁を交わし、千寿丸は妹姫を伴い、ひそかに城を出た。この城には築城当時に作られた秘密の抜け穴が存在する。それは代々、口伝で城主からその嫡男へと伝えられていた。
天守の壁の一部が動くようになっており、そこから地下へと続く長い階段がのびているのだ。
通親が手を触れると、壁が音を立てて動き始め、直にぽっかりと大きな穴が現れた。千寿と万寿姫がその穴に吸い込まれると、やがて壁は軋みながら再び元どおりに戻る。誰が見ても、そこに巨大な穴があったとは思えない。
「もしかしたら、私は子どもたちに死ぬるよりも更に辛き、酷いことを命じたのやもしれぬな」
二人が消えた壁を見つめながら、通親がぽつりと呟く。
その傍らで勝子が艶(あで)やかに微笑む。
千寿丸と万寿姫によく似た面差しを持つこの女性は、都から嫁いできた権中納言家の姫である。公卿の姫らしからぬ芯の強い女性であった。
「殿、あの二人であれば、必ずや自分たちの手で進む道を切り開いてゆきまする。私は我が生みし子らが強く生きてゆけるようにといつも厳しく育てて参りましたゆえ」
「そうであったな」
通親は笑った。優しい父上さまに、厳しい母上さまと、子どもたちは常に勝子をその名のとおり勝ち気なひとだと思ってきた。だが、その厳しさが、いずれこのような日が来ることを考えてのものであったとは、流石に利発な千寿丸だとて判ってはいないだろう。
失敗してしまったときは、すぐにその失敗の原因を教えてやるのではなく、何故、間違ったのかをじっくりと自分自身で考えさせるようにしてきた。それが、勝子なりの母としての愛情の示し方であった。たとえ頼りとする親を失い寄る辺なき身となっても、この苛酷な乱世で生き抜くすべは母として教え込んだつもりだ。
そんな勝子のやり方を、通親はいつも傍で見守ってきたのだ。
「さあ、私たちは先に参りましょう」
勝子が言うと、通親も頷く。
「そうよの。勝子、そなたと連れ添うて十六年、あっという間であった。私は良き妻を得たと心より感謝しておる」
「私も殿というお方にめぐり逢えて、果報者にございました」
二人の婚姻はやはり政治的なものではあったけれど、夫婦仲は初めから濃やかで次々に二人の子にも恵まれた。木檜嘉瑛がこの白鳥城に攻めてくるまでの間、国境(くにざかい)を接する他国と幾度かの小競り合いはあったものの、大きな戦もなく、一家は平穏に暮らしてきたのだ。
勝子が端座し、両手を合わせる手のひらには水晶の数珠がかかっている。
その背後に回った通親は何かに耐えるような表情で一挙に白刃を振り下ろした。
千寿と万寿姫は手を繋ぎ、ひたすら真っ暗な地下道を歩き続けた。
「兄さま、怖い」
作品名:龍虹記(りゅうこうき)~禁じられた恋~・其の一 作家名:東 めぐみ