いびつ
雨の中けぶるような緑、緑、緑。瑞々しい命のにおいが生臭くて、眩しさに涙がこぼれそうになる。ああ、吐きそうだ。春を過ぎ、夏へと向かう湿った空気がこの世を濡らし、緑の命を燃やす。
雨の世界はすべて嘘のように哀しくて、うつくしかった。
緑は命の色。
雨の日に出会った男。男の名は緑といった。
緑は雨が好きな男だ。雨がよく似合うような、静かで陰鬱な雰囲気の男だ。そして、どこか激しい夏の水みたいだった。静かなのに命を持ったのが水。
男は、緑は笑っていた。壊れたような笑顔を青白い顔に浮かべている。薄暗い雨の世界に浮かび上がる白い笑顔は、まるで幽霊のように怖くて、寂しい。
緑の笑顔の意味を少女は分からない。けれど、その笑顔が少女の心に焼き付いて取れなかった。心を抉るように深く、染みついてしまった。生々しい傷のように。
緑は少女に傘を差しかけた。
いびつな笑顔。
熱。
少女は雨の日は男と、緑と会うようになった。
緑によって、少女の闇色の心にたった一つの光が差した。小さな小さな光。あつい熱を持った狂いそうな微かな光。消えていた生きた感情が生まれた。命。緑によって少女は生まれたのだ。
少女は緑の笑顔が見たいと思っていた。いつも緑が見せる笑顔はいびつな泣き顔のようにも、冷たいもののようにも見えたから。少女は怖かった。緑の笑顔が怖かったのだ。なぜか緑が壊れてしまうように思えて怖かった。
少女は緑のことはその名以外によく知らない。
それでも、緑のそばに行こうと思った。その心に触れたいと、願った。
けれど、会えば会うほどに、近づくほどに、触れるほどに、緑は遠くへ行ってしまうような気がした。どれだけ近づいても、触れても、その心には決して触れることが叶わないと感じた。
少女にとって緑は雨だ。静かに世界を包み込み、心の境界すらあいまいにしてしまう雨。灰色の世界。この世界が心なんだと錯覚する。どこからどこまでが自分なのだろう。
そして、いつか雨は止んでしまう。音もなく何も残さずに。
それでも二人は、確かに二人だった。
ひとりとひとり。
雨の中、二人だった。
緑という名は、緑には不似合いのようにも、とても似合いのようにも思えた。生命力にあふれた緑の葉、命の象徴のよう。そしてただ枯れてゆく。深い深い緑。こわくてうつくしい。
いびつで壊れそうに不安定な、”緑”。ひびの入った薄い硝子のようだと思った。少女の目にはそう映る。そして、とてもとても怖かった。
いびつな笑顔。
少女は一度だけ緑の笑顔を見た。
少女が必死になっても引き出せなかった心からの笑顔。
雨上がり、雲間からわずかな光がのぞいていた。白い雨の世界の祈りのようにも思えた。その光を二人で見つめる。
そして、雨に濡れた緑は、ゆっくりと笑った。光を浴び、きらきらと雫が光って、光って、とても眩しい笑顔。何も持たないからっぽの笑顔。
儚くて、悲しくて、綺麗…。
どうしようもない思いが少女の胸に溢れた。少女の瞳に涙がにじんで、かすかに光った。