いびつ
あなたが笑ってくれるなら、私は何もいらない。
あなたが笑ってくれるなら、私はなんだってする。
あなたに笑っていてほしい。
あなたが笑ってくれたなら、私の命はなによりも幸せだから。
この瞳は涙を流すから。
だから、だから、
どうか
ある雨の日、男は、緑は死んだ。
あっけなく死んでしまった。
まるで最初からいなかったかのように。影のように一瞬で散ってしまった。
それはまるで幻。
少女の胸に、唯一の熱を残して、死んだ。
少女は自分の右手を見た。小さな生き物の手がそこにある。小さな柔らかな子供の手。いや、少女がその手をつないでいるのだ。決してその子供の手を離さぬように。何があっても離すまいと。
それは祈りのような、叫びのような思いだった。つながれた手の力は緩やかで、すぐにでも離れてしまいそうに脆い繋がり。それでも、離さないという強い願い。そして、慟哭。
少女は子供がその手を強く握り返してくれることを望んでいるのだろうか。それはもう少女自身にも分からないことだ。
子供の名は若葉。
若葉はある男の子供だ。緑の子供だ。その子供の存在を、少女は緑の死と同時に知った。緑が死んでその子供はただ、一人残された。それはその子供にとって悲しいことだろう。苦しいことだろう。この先も纏わりついて離れない影となるだろう。
そして、寂しい。
灰色の世界。
けれど、少女の心にとって子供の気持ちは意識の外にあった。少女はもう何も思うことができない、何も感じることができない。それほどに余裕をなくしていたのかもしれないし、もとより感情を閉じ込めて壊してしまっていたのかもしれなかった。
その子供を初めて見たとき、少女の体は衝動的に子供を抱きしめた。子供もまた、雨の中ずぶ濡れで立ち尽くしていた。初めて会った時の、緑のように。
少女は子供を抱きしめた。強い強い力で。抱きしめて閉じ込めてしまうように、何かに縋りつくように。
子供を、若葉を抱きしめた。
そして、今、少女は若葉の手を、緑の子供の手をつないでいる。
少女はその手を離さない。離す訳にはいかないのだ。苦しくても、悲しくても、間違っていても、恐ろしいことだとしても。たとえ子供がその手を離そうとしても。
その手を離すとき少女はいなくなる。
少女と緑は何かの「約束」をしたことはなかった。少女は、緑と自分の間に絆が存在するのか分からない。とても不安定で脆い二人。脆い少女。
それでも、緑は少女に若葉の存在を知らせた。自分の死と、同じく。それがどういうことだったのか、緑の思いなどもう分からない。すべては黒い闇の中に飲み込まれて消えた。
緑の死と、若葉の命を少女は同時に得た。
若葉はただ無表情に黒い瞳を濡らしている。雨のような瞳だと少女は思う。緑の瞳、若葉の瞳。同じようで違う、瞳。少女の世界はきっとその瞳なのだ。
いつか、少女は若葉の笑顔を見ることができるだろうか。その笑顔は眩しく光るのだろうか。儚く消えてゆくのだろうか。緑の笑顔のように。そんなこと誰にも分からない。
見上げると鈍く灰色に曇った空が明けて、平坦な青が続いていた。
あなたがいなくなってしまっても、私はあなたを愛する。
もう雨はどこにもいない。