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偽装結婚~代理花嫁の恋Ⅴ【本物のウェディングベル】

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 その違いを見せつけられたときの由梨亜の衝撃は生半ではなかった。あたかも広澤三鷹という人間が器だけはそのままに中身―精神(こころ)がまるごと入れ替わってしまって、別の人間になってしまったかのように見えた。
 恐らく、感情を感じさせない冷たい仮面の下で、三鷹もまた孤独や空しさを感じているのだろう。もしかしたら、明るくて淋しがりやの彼の方がより素顔に近いのかもしれない。本当の彼は感情豊かな人間みのある男だ。
 所有欲を剥き出しにして安浦医師に食ってかかっていた三鷹が何よりもそのことを物語っている。まるで、自分の縄張りを侵そうとするものに対して、牙をむき出して飛びかかろうとする狼そのものだった。
 刹那、こんなときなのに、由梨亜は奥底から込み上げてくる歓びに心が打ち震えるのを自覚した。
 三鷹はこれまで何度も〝好きだ〟と熱く囁いてきた。恐らく、その言葉にも気持ちにも嘘偽りはないのだろう。 
 だが、と、冷静な自分が有頂天になっている自分に冷淡に告げる。 
 三鷹は決定的な過ちを犯した。それは、裏切りという名の失敗だ。彼は由梨亜を騙したのだ。これ以上はないというくらいに、残酷なやり方で。
 由梨亜は彼を信頼することができない。そんな男をと、どうして長い人生を共にやってゆけると考えられるだろう?
 そこまで思い至り、由梨亜の歓びは急速に萎んだ。
「百歩譲って、あなたの私への気持ちが真実だとしても、いずれ冷めるときは必ず来る」
 由梨亜は真っすぐ三鷹を見つめ、決めつけるように言った。
 三鷹が哀しげに瞳を揺らした。
「何故、君はそう決めつける? 俺の気持ちが君に判るんだ?」
「あなたと私ではあまりにも違いすぎるわ。たとえ真実のあなたがどうあれ、あなたは伝説のプリンスでありS物産の副社長、いずれは社長になる男なの。母子家庭でささやかな幸せをこの世の幸せだと思って育ってきた私には理解できない世界だし、あなたも私にすぐに飽きて、つまらない女だと思うようになる」
「そんなことはない! 何度も言ってるだろ。お袋と親父のような不幸を俺は二度と繰り返したくない。自分自身の人生に持ち込むつもりはないんだ。由梨亜となら、ささやかな幸せを得られると思ったし、君なら、そういうごく平均的な幸せを本当の幸せだと感じられるだけの純粋で素直な心を持っている。もちろん、それだけじゃない。俺の心が誰よりも何よりも君を求めてやまないんだ」
 振り絞るような口調には果てのない懇願の響きがあった。まるで子どもが親に置いていかないでと必死に頼んでいるようでもある。
 由梨亜は彼からそっと眼を背けた。
「それに、母を一人にはできないわ。もうすぐ退院が決まりそうなの。いつ何があるか判らないから、誰かが側にいてあげなくてはならない」
 三鷹が勢い込んで言った。
「それなら、僕たちと一緒に住めば良い。何なら、同じマンションにお母さんの部屋を借りても良いんだよ。それとも、もっと広い場所に引っ越そうか」
 短い沈黙が流れ、由梨亜はそれについては触れずに続けた。
「最後に一つだけ聞かせて。私の誕生日をどうして知っていたの?」
 〝最後〟という言葉に衝撃を受けたのは三鷹だけではなかった。由梨亜もまた自らの言葉であるにも拘わらず、その短い言葉の持つ重みと厳しさに打ちのめされていた。
「調べたんだ」
 沈んだ声が返ってくる。
「調べた? あなたは探偵のように、私の身辺について調べ上げたの? ああ、プリンスにはたくさんの部下がいるから、あなたが調べたんじゃなくて、秘書が調べたのね」
 由梨亜の皮肉にも、最早、三鷹は反応しなかった。
「偽装結婚のことは俺たち以外は誰も知らない。秘書も君の存在は知らないさ」
 呟きにも似た、力ない声。
「あなたは私を騙した。信じていたのに、裏切ったのよ」
 刹那、三鷹の眼に決定的な絶望が宿った。
「あなたが私を騙した理由もよく判ったし。私がこれ以上、ここにいる意味はもう、なくなったわ」
 由梨亜は立ち上がった。
 心は哀しみと絶望で張り裂け、心は真っ二つに割れそうになっていた。
 まだ、自分はこんなにも三鷹を求め、愛している。ここで彼のプロポーズに〝Yes〟と言うこと自体は容易い。しかし、いずれ、後悔するときは遅からず来るに違いない。
 由梨亜の瞼に、一人の憐れな女の姿が浮かぶ。静かな海辺の病院で、ひたすら流れる時間に身を任せ、正気を手放した女性。こんなにも三鷹を愛している自分が彼に棄てられたら、やはり、三鷹の母のようになるかもしれない。
 やはり、できない。三鷹の差し出した手を取ることはできない。
 踵を返そうとした由梨亜の手をすかさず三鷹が掴んだ。
「行くな」
 突如として背後から抱きすくめられ、抱え上げられた。乱暴にソファに投げ降ろされたかと思うと、三鷹はすかさず由梨亜にのしかかってくる。
「行かせない。たとえ、どんな手段を使ったとしても、君を手放すものか」
 三鷹が強引に口づけようとする。熱い唇を押しつけられた。
「―ツ」
 三鷹が弾かれたように由梨亜から離れた。
「君はいつも俺を愕かせてくれるな。キスをして、噛みつかれたのは初めてだよ」
 三鷹は唇に薄く滲む血をぬぐった。
「三鷹さん、人の心は縛れないのよ。どれほどのお金と社会的地位があっても、身体を思い通りにしても、心まで服従させることはできないわ」
 由梨亜の眼に涙が光っていた。
「さよなら」
 由梨亜はソファからすべり降り、そのまま廊下を歩いて玄関から外に出た。
 マンションの隣は小さな公園になっていた。遊具といえば、小さな滑り台とブランコがぽつんと置かれているだけ。由梨亜が子どもの頃には、大勢の子どもたちが遊んでいたけれど、今は草が生えるに任せていて、子どもの姿を見ることはない。
 マンションを出た由梨亜はどこに行く気にもなれなくて、その公園に行った。
 一台しかないブランコに乗ってみる。
 その時、シャツブラウスのポケットから音楽が聞こえてきた。
 どうやら携帯にメールが来たようだ。二つ折りの携帯を開くと、差出人は〝ミタカさん〟となっている。
 ふいに、三鷹の賑やかな声が耳奥でこだました。
―よほどこの曲が好きなんだ。携帯の着信音にもしてるんだなぁ。
 由梨亜の携帯が鳴った時、三鷹が半ば呆れ半ば感心したように言ったことがある。由梨亜は携帯の着信音を〝ラブリー・デイ〟にしている。
 それがきっかけで懐かしい彼との日々が一挙に押し寄せてきそうになり、由梨亜は慌ててメールは読まずに携帯をポケットに放り込んだ。
 勢いをつけてブランコを漕いでみる。
 一、二、三。
 と数えて、三で弾みをつけた。由梨亜を乗せたブランコが高く持ち上がり、緩い弧を描く。長年使われていなかったらしいブランコは軋み、悲鳴を上げている。
 この公園には子ども時代の数々の想い出があった。夕方、陽が暮れるまで友達とブランコを漕いで遊んでいたら、心配した母が迎えにきた。
 母に手を引かれて見上げた夕陽は蜜柑色で、この上なく温かそうに見えた。
 あの頃は良かった。母と二人だけで、ささやかな幸せに包まれて。あの幸せが永遠に続くと心から信じていた自分は何と幼かったことか。