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偽装結婚~代理花嫁の恋Ⅴ【本物のウェディングベル】

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 由梨亜は士長に礼を述べて、また明日、ゆっくりと顔を見にくるからと伝えて欲しいと告げて病院を出た。病室で待っても良かったのだけれど、まだ二時間くらいはかかりそうだと聞いて、出直すことにしたのである。
 母が二週間も早く退院する! 娘としては歓ぶべきことなのに、何故か素直に歓べない自分がいた。その理由が三鷹にあることは判りきっている。
 二ヶ月の間だけは彼と一緒にいられると思っていたのに、別離はこんなにも早く突如としてやってきた。
 母の健康よりも自分の幸せを追求してしまう自分は親不孝な娘に違いない。由梨亜は、すっかり自己嫌悪に陥った。沈んだ気持ちで病院を後にし、気がつけば、元の職場―S物産の近くまで来ていた。
 自分でもどこをどう歩いたのか判らない。よほど母の退院が早まったことで動揺していのだろう。
 ここで引き返しても良かった―というより、むしろ引き返すべきだったのかもしれない。しかし、由梨亜はふと古巣ともいえるかつての勤務先をひとめ見てみたいと思った。
 少し離れた場所からS物産の建物を見るくらいなら、構いはしないだろう。同僚や後輩たちに見つかる可能性もゼロに等しい。
 由梨亜は意を決して歩き始めた。十分ほど歩いている中に、懐かしいビルが見えてきた。クビにされた当初はもう二度と見たくはない、こんなところに来てやるもんかと捨て鉢な気持ちで思ったが、今はもう懐かしさの方が先に立っている。
 たかだか二ヶ月足らずの中に人の気持ちはこんなにも変わるものかとしみじみと思った。いや、気持ちだけではない、この二ヶ月足らずの間に、由梨亜は一生分に匹敵する出来事を経験したではないか。偽装上とはいえ、広澤三鷹と結婚し、彼に恋をして、結ばれた。
 人生なんて、本当にいつ何があるか判らない。だから、がっかりもするけれど、わくわくもする。
 三鷹と過ごせるのも、あと二週間。恐らく、これからの二週間は一日一日が十年分にも相当する貴重なものになるはずだ。今はつまらない感傷や物想いに囚われているときではない。残り少ない彼との日々を精一杯、充実させたものにしよう。
 由梨亜が溢れた涙を指でぬぐったときのことである。S物産の本社社屋である超高層ビルの玄関扉が開いた。由梨亜が立つ場所はビルからものの数十メートルと離れてはいない。しかし、ビルの両隣はホカ弁屋や書店、コンビニなど雑多な店が居並んでおり、隠れ場所は幾らでもあった。
 由梨亜は今、ビルから店一つを隔てた書店の軒先にいた。表に平積みされている新刊雑誌を手に取り、読むふりをしながらビルの方を窺っていた。
 何げなくそちらを見て、由梨亜は驚愕した。いや、そんな生易しいものではなく、氷塊を背中に入れられたような寒々とした気分になった。
 S物産の自動ドアが開き、数人の社員が出てくる。先頭を歩くのはまだ若い男だ。明るいグレーのスーツを颯爽と着こなした、いかにもエリート風の美男である。そのすぐ背後を秘書らしき中年の社員が歩き、更にその後に七、八人の社員が続く。歳はまちまちで年配の男もいれば、若い女子社員の姿も見られた。
 秘書を除いた後の社員たちは玄関を出てすぐのところで立ち止まり、二列に並んだ。
「行ってらっしゃいませ」
「行ってらっしゃいませ」
 よく躾けられた子どものように、彼等は声を揃えて最敬礼した。まだ若い先頭の男はかなりの地位にあるようだ。
 それは男の風貌からもすぐに推測できた。仕立ての良いスーツに包まれた身体はほどよく筋肉がつき、精悍でありながら洗練された知的な物腰が窺える。ボルドーのネクタイをきっちりと締め、いかにも有能なビジネスマンの典型といえた。
 圧倒的な存在感は生まれながらにして他人に命令を下すことに慣れた者だけが持つものであり、更に、天賦の優れた資質ゆえのカリスマ性が彼の全身から滲み出ていた。この若い男が企業で重要な役職についている―もっと端的にいえばトップであることくらいは由梨亜にも判る。だてに六年もOLをしていたわけではないのだ。
 由梨亜はいつしかふらふらと前に歩いていた。少し歩いたところで、ビルから出てきたばかりの一行と遭遇することになるのは当然であった。
 由梨亜は若きカリスマ経営者を茫然と見上げた。彼女のアーモンド形の黒い瞳が揺れ、涙が白い頬をすべり落ちていった。
「―由梨亜」
 三鷹の口から吐息のように洩れた名前に、彼女はビクリと反応した。
 何故?
 どうして、私の三鷹さんがこんな場所にいるの?
 冷静で感情に流されない男。
 瀕死のニューヨーク支社を建て直し、更に本社に戻って半年で経営を赤字から黒地に転じさせつつある奇蹟の男。
 誰からも畏怖される若きカリスマ経営者は、ミラクル・プリンスと呼ばれている。
「由梨亜ちゃん、待って」
 三鷹が背後で叫んだが、由梨亜は泣きながら走った。涙が七月の乾いた空気に散ってゆく。ほどなく背後から手首を強く掴まれた。
「何で逃げるんだ?」
「放して」
 由梨亜は大粒の涙を零し、三鷹を見た。
「あなたなんて大嫌い、最低よ」
 叫ぶなり、由梨亜は三鷹の腕を振り払い、去っていった。
 一方、由梨亜を認めた三鷹が血相変えて追いかけていった後、残された社員たちはひそひそと囁き交わしていた。
「何事にも動じない副社長があんなに慌てたのって、何だか信じられない」
「あの女、誰かしら」
「プリンスの愛人じゃない? 何だかプリントを見て、物凄く愕いていたようだし、泣いてなかった?」
「あれだけ血相変えて追いかけてったということは、プリンスが相当入れあげてるわけね」
「でも、あの女の人はどこかで見たことがあるような気がするけどな」
 三人の女子社員たちが額を寄せ合って喋っている。その中の一人が〝あ〟と声を上げた。
「あの子、営業にいた城崎さんよ」
「えー、営業の城崎さんって、先月、退職勧告を受けて辞めた人でしょ」
「会社を辞めた人が何でプリンスの愛人になってるの?」
「だから、仕事替えっていうか、部署替えしたんじゃない?」
「さしずめ副社長の愛人兼欲望処理係ってとところ?」
「やだー」
 三人がはしゃいでいるところに、副社長の秘書がつかつかと近寄った。
「君たち、今は勤務時間中だぞ、私語は慎みたまえ」
「あっ、はっ、はい」
「はい」
 秘書課の課長にして副社長広澤三鷹の第一秘書長塚泰典。プリンスと呼ばれる御曹司の最も信頼する部下でもある。
「社長が依然として代表取締役を務めているとはいえ、今や、副社長が実質的には社長の激務をこなされている。副社長は我が社の顔なんだぞ? その評判はそのま我が社の評判、信用にも関わる。殊に、まもなく社長就任の話も出ているという大切なときに、スキャンダルが出て週刊誌ネタになってはまずい。君たち、よくよく気をつけなさい」
 うなだれる女子社員たちに、中年の第一秘書はきついまなざしをくれ、これ見よがしな溜息をついた。