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偽装結婚~代理花嫁の恋~Ⅳ

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 三鷹の母は宏壮な邸宅で大量の睡眠薬を飲んだ上、手首をナイフでかき切った。たとえ、どれだけ広くて立派な屋敷に住み、贅沢な暮らしをしたとしても、三鷹の母にとっての家は豪奢な牢獄にも等しかったに違いない。
 発見が早かったため、一命は取り留めた。しかし、三鷹の母がついに完全に回復することはなかった。身体の方は元どおりになったが、一度壊れた精神(こころ)は再び立ち直れなかったのだ。
「父は廃人同様になった母をまるで厄介払いするように、ここに入れた。必要な資金の他にも多額の寄付をしたそうだが、父がここに母を見舞いにきたことはたった一度もないそうだ」
 三鷹の両脇に垂らした拳がかすかに震えていた。
「俺の両親は見合い結婚だったんだ。もちろん、家同士の結びつきを強めるためのもので、当人同士の意思なんて、これっぽっちも考慮はされなかった。父には学生時代に熱烈な恋愛をしていた相手がいたとかでね。その恋人と無理に別れさせられて、母と結婚したのだと聞いている。だから、父は最初から母には冷たかった。こんな女さえいなければという想いが強かったんだろうな」
「そんな―、お母さまには何の責任もないのに」
 むしろ、三鷹の母もまた哀しい犠牲者の一人ではないか。なのに、一方的に三鷹の母を疎んだという父親に、由梨亜は怒りを禁じ得なかった。
 三鷹が由梨亜を真正面から見た。
「だから、俺は愛のない結婚だけはしたくないと思ってきたんだよ。代役の花嫁を探していたのも、実はそういう理由があったからなんだ。親父は何とか俺を取引先会社の令嬢と結婚させようとしていた。まあ、その子には逢ったこともないし、悪い子ではなかったかもしれない。俺は哀しむ母の姿を見ていたから、仮に愛のない結婚をしなければならなくなったとしても、父のように妻を遠ざけるつもりはなかった。でも、叶うならば、生涯の伴侶は自分で見つけて、心から惚れた女を妻に迎えたいとは考えていたよ。そんなときに、君にめぐり逢ったんだよ、由梨亜ちゃん」
 三鷹は低い声で笑った。
「この偽装結婚が早速、功を奏して、俺の花嫁候補だった令嬢は先月の末に他の男と婚約したって聞いた」
 由梨亜は返すべき言葉を持たなかった。
 三鷹のことは大好きだ。このまま一緒にいれば、その〝大好き〟がいずれ愛情に変わることは予測できた。
 でも、由梨亜は三鷹と結婚するつもりはない。話を聞けば聞くほど、彼の住む世界は怖ろしく、平凡な母子家庭で育った由梨亜には想像も及ばない場所だ。
 そんな世界に入り、三鷹の妻となって暮らすなんて、由梨亜は堪えられそうになかった。
 だが、三鷹は由梨亜に応えを求めるつもりはないらしい。喋るだけ喋ると、再び眼を細めて海に視線を転じた。
「親父が日曜参観に来たことなんて、一度もなかったな。だから、俺はいつも思ってた。いつか自分が家庭を持ったら、必ず父親参観日には行くと決めてたんだ。まだ小学生がそんなことを考えたんだから、その頃からマセたガキだったのかもな、俺」
 三鷹は由梨亜を見ても人懐っこい笑みを浮かべた。
「おかしいかな、こんなことを考えるのって」
 明るく言う彼の笑顔の下には深い孤独と哀しみが透けて見えた。
「ちっとも。素敵じゃない? 私も父親は不在の家庭だったから、三鷹さんの気持ちはよく判るわ」
 そう言うと、三鷹は嬉しげに笑った。
「さて、そろそろ一時間が来るな」
 三鷹は腕時計を見ると、母親に話しかけた。
「芙美子さん、海風も冷たくなってきたし、そろそろ家に戻ろうか」
「オウチ、モドル。ウレシイ、モドル」
 三鷹の母の表情がまたほんの少し明るくなる。
 三鷹はやるせなさそうに言った。
「母にとっての家はもう、俺と暮らしていた場所じゃない。今はここが母の我が家で、面倒を見てくれる介護士さんやヘルパーさんが家族なんだ」
 再び車椅子を押してクリニックに戻り、受付で戻ったことを告げる。すぐに奥から、あの体格の良い介護士が迎えにきた。
「広澤さん、今日は良かったわね~。息子さんと可愛い息子さんの彼女にまで逢えて」
 介護士が優しく話しかけ、三鷹の母は嬉しげに繰り返した。
「ムスコ、ムスコのカノジョ、カワイイ、ユリア、オヨメサン」
 三鷹の言うように、彼の母はすべてが理解できないというわけではないのだろう。乏しい反応からもそれは理解できた。
「あら、広澤さん。そのお嬢さんって、彼女じゃなくてお嫁さんなの?」
 介護士が眼を丸くしている。
 三鷹は少し照れたような表情で、嬉しげに頷いた。
「はい」
「まあ、それは知らなかったわ。隅に置けないのね。とにかく、おめでとう」
 介護士は笑顔で由梨亜にも言った。
「また是非、お義母さんに逢いにきてあげて下さいね」
「はい」
 由梨亜は素直に頷いた。
「じゃあ、芙美子さん。また来月、逢いにくるからね。それまで介護士さんの言うことをちゃんときいて、セーラちゃんと仲良くしてるんだよ?」
 母親ではなく我が子に話しかける口調で言い、三鷹は母親の手を両手で包み込んだ。
「ちゃんと食うもの食って、元気でいてくれよな」
 と、三鷹の母が突如として歌うように呟いた。
「セーラチャン、チガウ、コノコ、ユリアチャン」
 介護士の女性が太った身体を揺すって笑う。
「あらま、また名前が変わったの?」
 三鷹が笑いながら説明した。
「お袋がいつも放さないあの人形、あれの名前がセーラだったんだけど、どうやら、今日からユリアに変わったらしいな」
「ユリア、カワイイ、オヨメサン、オヨメサン」
 三鷹の母は少女のような邪気のない表情で繰り返している。
 介護士と三鷹の母に見送られ、二人はクリニックを後にした。帰りの車内では、二人とも口をきくことはなくN町まで帰った。
 由梨亜には、海沿いの静かな町で見た三鷹の母のことが重く心にのしかかっていた。愛のない結婚が一人の女性の心をずたずたにし、再起不能にした。
 三鷹がこれほどまでに恋愛結婚に拘るのも何となく理解できるような気はする。まだ小学生のときから、自分が父親になったら必ず父親参観には出ると決めていた―その話も由梨亜の心を切なく揺さぶった。
 けれど、自分は三鷹の側にはいられない。三鷹が母親を何よりも大切に思っているように、由梨亜にも母がいる。これから先、母の健康については細心の注意を払わなければならない。常に誰がが側にいて支えてあげなければならないのだ。
 そして、今、その役目を果たせるのは娘である由梨亜しかいない。由梨亜が三鷹との結婚を躊躇うのは未知の世界へ脚を踏み入れることへの恐怖と不安、更に母の面倒は自分が見るべきだという娘としての強い責任意識に他ならない。
 その夜、由梨亜は夢を見た。
 由梨亜の眼前には見渡す限り白砂と蒼い海がひろがっている。
 白い波が寄せては返す波打ち際に、一人の女がひっそりと佇んでいた。白いワンピース姿にお下げ髪の女は後ろ姿だけ見ても儚げで華奢な肢体をしている。
 ふいにその女が一歩前へと進んだ。女の白い素足を波頭(なみがしら)が洗う。女は躊躇うこともなく、ひたらす足を動かし前へと進んでゆく。
―駄目ッ。それ以上進んでは、溺れてしまう。