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偽装結婚~代理花嫁の恋~Ⅳ

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 五分くらい経っただろうか。受付から真っすぐに伸びた廊下を車椅子に乗った女性が介護士に連れられてやってきた。
 オフホワイトにピンクの小花が散ったパジャマを着て、セミロングの髪をおさげにしている。格好は少女めいているが、どう見ても五十は過ぎているように思える。
 女性はフランス人形を彷彿とさせる金髪、蒼い瞳の大きな人形を後生大切そうに抱いていた。
「広澤さん。息子さんが来てくれたわよ」
 車椅子を押している中年の介護士が大きな声で告げた。仕事柄もあるのだろうが、恰幅がよく、頬の紅い健康そうな女性である。
 由梨亜は三鷹の様子を窺った。
「ムスコ、キタ。ムスコ、キタ。ムスコッテダアレ?」
 まるでロボットが喋るような口調で車椅子の女性が口にする。
 三鷹はしゃがみ込み、女性と同じ眼線の高さになった。
「芙美子さん、また来たよ。今度は随分と待たせたね。仕事の方が忙しくて、なかなか来られなかったんだ」
 三鷹のこんな思いやりに満ちた優しげな声は聞いたことがなかった。
「じゃあ、お願いしますね」
 赤ら顔の介護士が三鷹に微笑みかけ、三鷹は頷いた。
「判りました。一時間ほど近くを散歩してから帰ってきます」
「行ってらっしゃい」
 介護士はにこやかに手を振り、廊下を元来た方へと戻っていった。
「芙美子さん、少し散歩しようか」
 三鷹は女性に話しかけ、車椅子を押して歩き始める。由梨亜は二人の少し後に続いた。
 少し歩くと、クリニックの庭に出た。芝生が一面に植わっており、花壇には向日葵の花が咲いている。ここからの眺めは完璧だった。
 まるで一枚の絵画のように、蒼い海がはるか彼方に横たわっている。白いカモメが点景となって天高く飛翔していた。梅雨明けはまだだが、今日はよく晴れている。どこまでも涯(はて)なく続く蒼穹と海が渾然一体となり、水平線の区別がつかないほどだ。
 三鷹は最も眺望の良いと思われる場所に車椅子を止めた。
 由梨亜は二人の背後からそっと訊ねた。
「この方が三鷹さんのお母さま?」
 三鷹は頷き、再びしゃがみ込んで女性の顔を覗き込んだ。
「芙美子さん、俺さ、嫁さんを貰ったんだ。凄い可愛い子だよ。芙美子さんは娘を欲しがってたから、きっと気に入ると思って連れてきたんだ」
 お下げ髪の女性―三鷹の母が虚ろな眼をかすかに動かした。
「オヨメサン、ムスメ、ホシイ」
「そう、俺の奥さんだから、芙美子さんには義理の娘ってことになるんだ」
「オンナノコ、ムスメ、ホシイ」
 三鷹の母は壊れたラジオのように同じ科白を繰り返す。
「由梨亜ちゃん。挨拶してやって」
 由梨亜は慌てて、三鷹の母に頭を下げた。
「初めまして、城崎由梨亜といいます。あ―、じゃなくて、広澤由梨亜です。不束者ですが、よろしくお願いします」
 まさか三鷹の母に逢うことになるとは考えてもいなかったので、何ともとんちんかんな挨拶をしてしまった。
「ユリア、カワイイ。ムスメ、カワイイ」
 三鷹の母は無邪気な歓びをたどたどしい言葉で表現している。それまで生気のなかった顔にわずかながら明るさが戻っていた。
 三鷹の母がしきりに手招きしている。
 振り返ると、三鷹が頷いた。由梨亜はしゃがみ込み、三鷹の母と視線を合わせた。
 ふいに温かな手のひらが由梨亜の髪を撫でた。
「ムスコ、オヨメサン、カワイイ」
 そう言いながら、由梨亜の髪を撫でている。
 傍らで三鷹がポツリと言った。
「お袋はすべて判っていないわけではないんだ。俺が息子であるとは認識できてはいないけど、君が俺の嫁さんだってことは理解しているはずだ」
 由梨亜は三鷹の孤独を宿した表情が胸に迫り、何も言えなくなった。
「いつか三鷹さんのお母さんに逢って欲しいって言ってたけど」
 控えめに言葉を選ぶと、三鷹は笑って頷いた。
「色々と説明するより、連れてきた方が早いと思ってね」
「そうだったの」
「お袋に逢って、どう思った?」
「三鷹さんによく似ているみたい。目許なんて、そっくりよ」
 三鷹はまたひっそりと笑う。
「俺は親父じゃなくてお袋に似てるんだ。物心ついたときから、皆に言われてきたよ」
「でしょうね」
 三鷹は緩くかぶりを振った。
「お袋がこんなになってしまったのは、あついのせいだ」
「あいつ?」
「親父だよ。親父がこの人をここまで追いつめたんだ。現(うつつ)と夢の判別さえつかないところまで」
 由梨亜が黙っていると、三鷹は視線を遠い海に戻し、彼の母がここに来るまでの経緯を話し始めた。
「親父は根っからの仕事人間でね。まあ、そういえば聞こえは良いが、現実は全く家庭を顧みようとしない夫だった。典型的な亭主関白というのか、横暴でワンマンで、女なんてものは男のために生まれて生きているようなものだと本気で信じてるような時代錯誤な男なんだ」
 彼の口ぶりから、三鷹が父親についてけして良くは思っていない―むしろ憎んでいることは窺えた。
 三鷹は淡々と語る。それはまるで他人事か小説を朗読するような感じだ。
 三鷹の父は仕事一辺倒だけではなかった。家庭を顧みないくせに、外に愛人を作り、殆どの時間を愛人の許で過ごした。
「母が俺に隠れて泣いていた後ろ姿はいまだに忘れられない」
 振り絞るような口調に、彼の長年の孤独と悲哀が滲んでいた。
 三鷹の母はその中、次第に精神に変調を来すようになった。それでも、まだ気丈に己れを保とうとしていたのが、ある日、突然、細い糸がプツリと音を立てて切れた。
「親父の愛人が妊娠したという噂が母の耳に入ったんだ」
「―それはショックだったでしょうね。女なら、許せないし酷く哀しいことだわ。噂は本当だったの?」
 三鷹は相変わらず海に向けている眼をかすかに眇めた。
「残念ながら真実だった。愛人は女児を産み、父は歳取ってからできた娘を狂ったように溺愛した。俺が大学一年のときのことだよ」
 あまりに父親が愛人の生んだ娘を可愛がるので、当時は誰もが広澤家の財産や家督を父親がその脇腹の娘に譲るのではないかと勘繰ったという。
「今、その女の子はどうしてるの?」
「―死んだ」
「えっ」
 由梨亜は愕きのあまり、声を上げた。
「私立の小学校に入ってすぐだったかな。休みの日にベビーシッターが遊ばせていたんだけど、ちょっと眼を離した隙に家から外へ飛び出して、折悪しく走ってきた車に撥ねられたんだ。ほぼ即死だったらしい」
 三鷹は遠い眼で海を見つめた。
「たとえ母親は違っても、俺には妹だ。確かにその顔を見たこともない妹を憎んだことがなかったといえば、嘘になる。でも、死んじまえば良いなんて思ったことは一度もない」
 三鷹は漸く海から視線を逸らし、車椅子に乗った彼の母を見た。三鷹の母は虚空を映し出したかのような双眸を見開いたまま、身じろぎもしない。
「こんな風になってしまったから、お袋は異腹の妹が亡くなったことも知らずに済んだ。そのことが良かったのかどうかは判らないけどね。俺が日本の大学を出てニューヨークに留学して半年後に、お袋は自殺未遂を図った。あの時、俺が側にいてやったらと今でも悔やまれてならない。母は孤独だったんだろう」