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偽装結婚~代理花嫁の恋~Ⅲ

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 疑問に思ったものの、この場で言い合う気力もないほど疲れ切っている。由梨亜は力ない声で返した。
「病院。母の見舞いに行っていたの」
 三鷹はリビングで薄い冊子を捲っている。それが仕事関係の資料であることは、由梨亜にもすぐに判った。だてにS物産の営業部にいたわけではない。ただ、全文が英語らしいので、何に関しての資料なのかは判らない。
 所々に円グラフや棒グラフ、商品の写真と思しき画像が挿入されている。
 恐らく彼の主張は正しいのだろう。彼はどこまでも〝真面目な会社員〟なのだ。
 この男はたくさんの謎を持ちすぎている。由梨亜の知らない、もう一つの顔―いかにも今風の若者好みの派手なロゴ入りTシャツとジーンズという姿と英字がびっしりと並ぶ資料は全く不似合いな代物だ。
「お袋さんの具合はどう?」
 矢継ぎ早に訊ねられ、由梨亜はか細い声で応える。
「調子は良さそう。もう部屋でじっとしてられないみたいで、いつ行っても部屋にいないのよ」
「それは良かった」
 三鷹は冊子を閉じると、さりげなくクリスタルテーブルの下に置いた。脇へ寄せるだけで良いのに、わざわざ下に置くのは勘繰れば、由梨亜の眼から隠したいためのようにも思える。
「流石に毎日ピザでは飽きるしね。今夜は何を取ろうか」
「欲しくないの。あなただけどうぞ召し上がって」
 由梨亜はそのまま奥の自室へ行こうとして、振り返った。
「三鷹さん、もしかしてN病院に母宛で花かごを贈ったの?」
 三鷹は一瞬、眼を見開いた。
「ああ、流石に実名ではまずいかと思って、イニシャルで贈ったけど」
 短い沈黙が降り、三鷹が静かな声音で言った。
「いけなかったかな」
「高かったでしょう、立派な薔薇があんなにたくさんあったもの。あんな贅沢な花かごは見たこともない」
「君の気に障ったのなら、謝るよ。これからはもうしない―」
 由梨亜は彼に皆まで言わせなかった。
「そういう問題ではないの! 私、母には何も話してないのよ。母はごく平凡な人で、これまで地道に生きてきたの。娘の私が偽装結婚なんて馬鹿げた契約を交わしたと知れば、本当にショックで心臓発作を起こしかねないわ。母に余計な疑いを持たせるようなことは一切しないでちょうだい」
 由梨亜は首を振った。
「夕方、病院の売店で花を買ったわ。向日葵と紫陽花、どちらもとてもキレイに見えた。でも、あなたが贈ってくれたバスケットを見たら、自分の買ってきた花が急に色褪せて見えたの。数十本の薔薇の前では、所詮、数本の向日葵と紫陽花は霞んでしまう。そんな貧相な花を後生大事に抱えてきた自分が物凄く惨めに思えたの。その時、考えた。あなたと私の住む世界はこれくらい違うんだって。金持ちの道楽息子が考え出した偽装結婚になんて協力している私はもっと大馬鹿だって」
 言い過ぎだと自分でも思った。なのに、一度、溢れ出した言葉はほとばしり出て止まらない。
 三鷹がしたことは確かに少し常識を逸脱しているかもしれない。しかし、彼に悪気はなかったはずだ。ただ由梨亜が歓ぶのではないかと純粋に考えて、花かごを母に贈ったのだろう。それなのに、ここまで彼を責めるのは間違っている。
「判った。これからはもうしない」
 三鷹は沈んだ声で言った。
 そのときの酷く傷ついた表情が由梨亜の胸をついた。
「出かけてくるよ。遅くなるかもしれないから、先に寝ていて」
 三鷹は一旦寝室に入ると、直に出てきた。まだリビングにいた由梨亜には眼もくれずに通り過ぎ、マンションを出ていった。
 その夜、由梨亜はまんじりともできなかった。眼を閉じて眠ろうとしても、三鷹のあの表情、まるで行き場を失った迷子の子猫のような眼が浮かんでしまう。
 心ない言葉の礫(つぶて)で、自分は明らかに彼を傷つけてしまった。帰ってきたら、ちゃんと謝ろうと思い、眠れないままベッドの中で幾度も寝返りを打っている中に、うとうとと浅い微睡みに落ちたようだ。
 マンションの玄関ドアが開いたのは午前二時を回っていた。孤独な瞳をした彼はどこを彷徨(さまよ)っていたのか。
 唐突に、三鷹が由梨亜の全く知らない女と一緒にいる光景が浮かんできて、由梨亜は慌てて首を烈しく振った。もしかしたら、三鷹は傷つけられた心を癒してくれる女の許に行ったのではないか。
 現在、恋人はいないときっぱりと断言したけれど、真実かどうかは知れたものではないし、付き合っている女性の一人や二人はいるかもしれない。
―相手は俺なんてまるで眼中にないみたいだから、望み薄かな。
 そういえば、彼には好きな女がいるらしい。正確にいえば片想い中だと彼自身が言っていた。
 もしかしたら、その女と一緒にいたのかもしれない。由梨亜なんて足許にも及ばないような、綺麗で知的で洗練されている美しい女。その女に微笑みかけている彼を思い描いただけで、心がどす黒く染まってしまいそうだ。
 私、逢ったこともない女のひとに嫉妬しているのかしら。
 認めたくはないが、自分の胸にわだかまっているもやもやとした感情の正体は嫉妬(ジェラシー)しか考えられない。 
 由梨亜は暗澹とした想いに駆られた。

 穏やかな日々が過ぎていった。三鷹との関係もあれから踏み込みすぎることもなく、かといって冷淡というわけでもなく淡々と流れていっている。彼は相変わらず冗談や軽口を飛ばし由梨亜をからかってきたし、由梨亜は適当に受け流し時に辛辣な言葉で応酬した。
 だが、二人の間には常に緊張感が漂っていた。それは、あたかもちょっとした刺激が加われば一瞬で烈しく燃え上がろうとする焔のようでもあった。しかし、その焔の正体が何なのか、由梨亜にも判じ得なかった。
 肉体的に引き合おうとする―情欲に近いものか、或いは、ともすればぶつかり合おうとする気持ち、想いなのかは。
 その日、由梨亜は久々に腕に寄りをかけて夕食を作った。心に重いものを抱えているときは、料理を作るのが何よりの気分転換になる彼女である。
 三鷹が母に豪華すぎる花かごを贈り、気まずい雰囲気になったあの翌日以来、由梨亜は毎日、腕を振るって食事を拵えた。三鷹はやはり作らなくて良いと言うけれど、こんなことでもしていなければ間がもてない。
 コンビニのバイトは週の中、六日入れていたのだが、三鷹がもう少し減らしても良いのではと言い、週に三度にして貰った。彼はどうやら、〝妻〟がバイトに行くのは気に入らないようである。
―親父が知ったら、俺たちの関係を怪しまれるかもしれないだろう。
 と言っている。確かにそれもあるのかもしれないが、三鷹自身がどうも気乗りしないようだ。
 金持ちの坊ちゃんやその奥さんはバイトなんてしないのかもしれない。しかし、由梨亜は三鷹の本当の妻ではないのだし、幾ら偽装結婚上の〝妻〟だからといって、そこまで彼に束縛されるいわれはない。
 お金なんて使えば、すぐになくなる。この偽装結婚が終わり、首尾良く二百万を手に入れたとしても、蓄えはないよりはある方が良い。
 バイトに出るのは週に三度で、しかも昼間の数時間だけだ。後は朝と晩、N病院に母の貌を見にいくだけが日課となれば、家事の真似事でもしなければ暇を持て余しすぎる。