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偽装結婚~代理花嫁の恋~Ⅲ

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 三階の母の部屋には、当然というべきか、母の姿はなかった。各階のナースステーションの前には待合のようなスペースがある。
 見るからに座り心地の良くなさそうな長椅子がコの字型に並んでいて、そこが患者同士や面会者と患者との談話室として使われていた。
 母はその長椅子の一つに座り、七十歳くらいの品の良い年配女性と熱心に話し込んでいる。邪魔をするのも悪いと少し離れた場所から眺めていると、母の方が気づいたらしい。話し相手の老婦人に会釈して、こちらに向かって歩いてきた。
「また、部屋を抜け出したりして」
 由梨亜が睨むと、母は笑い飛ばした。
「あの方、貝山さんっておっしゃるんだけど、とても気さくで良い方なのよ。明日にはもう退院ですって。羨ましいわねぇ。長唄の師匠をなさっているらしいから、退院したら、お稽古にでも通おうかしら」
 全く人の気も知らないで、悠長なものである。
「長唄も良いけど、そのためにはまず元気にならなくちゃ。いつ来ても、部屋にいた試しがないでしょう。また発作が起きても知らないわよ」
 廊下を並んで歩きながら、由梨亜はブツブツと不平を言った。
「今、会社の帰り?」
 問われ、慌てて頷く。面倒だが、ここに来るときは予め通勤用にしていたスーツに着替えることにしている。
「お花を買ってきたのよ」
 と、手にした小さな花束を振って見せた。
 病院の売店で買ったものだが、小さな向日葵と紫陽花は殺風景な病室に多少の彩りを与えてくれるだろう。
「花束っていえばねぇ」
 と、母がいささか困惑気味に言った。
「どうかしたの?」
 部屋のドアを開けた途端、洗面台の側にあるキャスターつきのテーブルが眼に入った。その上に大人でも両腕で抱えるのが精一杯であろうかというような大きな花かごがのっている。
「さっきは判らなかったわ」
 もぬけの殻のベッドを見ただけで、ろくに室内を見てはいなかったからだ。
「こんな立派な花かごが届いたものだから、私はもうびっくりしてねぇ」
 由梨亜は花かごについている小さなカードを開いた。淡いピンクのカードには手書きで、〝一日も早いご快癒を祈ります。 M.H〟と記されている。男性らしいのびやかな手蹟でありながら、流麗な文字だ。
 バスケットには数十本の色とりどりの薔薇とカーネーションがふんだんにあしらわれていた。これだけで一万円以上はするだろう。
 見舞いの品は何も立派だとか金をかけるだけがすべてではない。由梨亜の感覚からすれば、見舞いの花かごにこれほど豪華なものを贈るというのは信じられず、常識外れとしか思えなかった。
 そして、このバスケットを贈ってきたのがそも誰かなのか。予測はついた。
「一体、誰なのかしら。私にはまるで心当たりがないんだよ」
 探るような視線に、由梨亜は微笑む。
「私にも判らないわ。誰なのかしらね」
 由梨亜は持参した花瓶に向日葵と紫陽花を活けながら、この花たちを棄ててしまいたい衝動と闘った。
 売店で見たときは深い海色の紫陽花と眼にも鮮やかな黄色の向日葵がとても美しく見えたのに、あの三鷹の贈ってきた豪奢な花かごの前では、随分と貧相に思えた。何故か、こんな小さな花束を嬉々として買ってきた自分がとても惨めに感じられてならなかった。
 三階の窓からは、四角い窓枠が暮れなずむ空をまるで一つの絵のように切りとっている。淡いパープルから徐々に紺青に染まってゆく空を背景に、明かりの灯(とも)り始めた町がひろがっていた。
 あの明かりの数だけ、家があり、人の営みがある。なのに、今や由梨亜の帰るべき場所はあの中のどこにもない。
 マンションに帰れば、また三鷹との生活が続いてゆく。あれほど約束したのに、彼は何かといえば由梨亜に触れようとしてくる。
 たとえ遊び半分の行為にしても、由梨亜はその度に心をかき乱されるのだから、たまったものではない。それに、心のどこかでは三鷹を怖れる気持ちもあった。
 昨夜の情熱的なキスはどこまでも官能的で、由梨亜が今まで感じたことのないような未知の感覚を呼び覚ますものだった。舌を絡め合い、吸い上げられてゆく度に、得体の知れない妖しい震えが四肢を駆け抜けて下腹に溜まってゆくような不思議な気持ちになった。
 もしかしたら、突然、襲いかかられたという事実よりも、三鷹が仕掛けてくる行為で自分が変わってゆく―知らなかった感覚を呼び起こされ、引き出される方が怖いのかもしれない。
 もちろん、自分の意思を無視して、無理強いしようとする三鷹の行為そのものも許せないし、怖い。昨夜はあそこまでで彼が思いとどまってくれたから良いようなものの、いつまた彼が理性を失うかは判らない。あらゆる意味で、この偽装結婚が自分にとっては大変危ういものだとの自覚は強まるばかりだ。
 こんな状態で、彼との生活を続けても良いのだろうか。
 これから先を考えれば、こんなことはすぐに止めるべきだと判りきっていた。偽装結婚なんて、誰が聞いても尋常ではない。分別ある人であれば、必ず断る類の話に相違ない。
 なのに、判っていながら、止められない自分がいる。そう、自分は他ならぬ彼と一緒に―三鷹の側にいたいのだった。偽装結婚に終止符を打つことは、即ち彼との別離を意味するから。
 だからぐずぐずと結論を出すのを先のばしにしているにすぎない。お金が必要だとか仕事が見つからないというのは所詮、自分の本心をごまかすための方便だ。
 母の入院費用くらいなら、貯金で何とか賄えるはずだし、これから贅沢を言わなければ、仕事を見つけることは不可能ではない。元々、母娘二人の慎ましい暮らしだから、贅沢をしなければ、由梨亜の稼いでくるお金だけで何とかはやってゆけるはずだ。
 今日の昼間、彼には好きな男はいないと告げた。それは真実だ。しかし、もしかしたら、自分はあの男を―飄々としたお調子者の下に別の顔を隠し持っている得体の知れない男を好きになり始めているのかもしれない。
 だが、遅かれ早かれ、別離はやがて来る。三鷹にとって代理花嫁が必要でなくなった時、更には母がここを退院するときが終わりの瞬間なのだ。
 いずれ離れなければならないのなら、好きになってしまう前に離れた方が心の傷も少なくて済むだろう。
 想いに沈む由梨亜の耳を、母の声が打った。
「由梨亜、私のために無理をする必要はないんだよ」
 由梨亜はハッと現(うつつ)に返る。いつしか窓越しにひろがる空はすべて夜の色に塗り尽くされていた。明かりの数はますます増え、町のイルミネーションがあたかも光のまばゆい帯のように見える。
「由梨亜の辛そうな表情を見るのは私も辛いから」
 由梨亜はできるだけ明るいものに見えることを祈りながら、微笑んだ。
「もちろんよ。私もお母さんに心配はかけたくないもの」
 その後、しばらく話をしている中に、病院の食事が運ばれてきた。母が夕食の半ばまで食べたのを見届けてから、由梨亜は〝おやすみなさい〟を言って病室を後にしたのだった。

 由梨亜がマンションに戻ってきた時、既に三鷹は先に帰っていた。
「どこに行っていたんだ?」
 顔を見るなり訊かれた。三つや四つの幼児でもあるまいに、いちいち外出先や目的まで三鷹に報告する必要があるのだろうか。