偽装結婚~代理花嫁の恋~Ⅲ
「これから、ですか?」
少し考えた後、由梨亜はゆっくりと言葉を選びながら応えた。
「また次のちゃんとした仕事を探さなきゃ。いつまでもコンビニでバイトもないですしね。でもね、正直言うと、私は自分が何をしたいのかよく判らないの。二十七にもなって、身につけた技術一つあるわけではない。もし、そんな技術があれば、次の仕事も見つかりやすいんでしょうけど」
「君は会社ではどの部署にいたの?」
「営業です。販促の担当を同僚と二人で組んでやってました」
「そう。君みたいな役に立つ社員をクビにするなんて、S物産は勿体ないことをしたな。先見性のある考えを持つっていうのは、簡単なようでなかなか難しいんだよ。ビジネスは常に市場がどう動いてゆくか―少し先を考えて方針を次々と打ち出していくものだから。君のようにまだ若いのに、先が読めて広い視野で全体を見ることのできる人間は実は会社にとって物凄く貴重な人材だ。もし俺がS物産の頑固爺ィだったら、君じゃなく、その人を見る眼のない人事部長を先にクビにする」
由梨亜は笑った。
「三鷹さん、S物産によほど恨みでもあるのね」
「由梨亜ちゃんが教えてくれた先ほどの対策案、会議にかけてみる必要がありそうだな」
三鷹が呟くのに、由梨亜は肩をすくめた。
「S物産の人事部に匿名で電話でもするつもりなの?」
「まあ、ね」
三鷹は曖昧に笑い、また表情を引き締めた。
「君は結婚とかは興味ないのかな」
「今のところ、ないですね。まだ自分のやりたいことも判らない状態なのに、結婚なんて考えられない。それに、結婚は相手がいなきゃできませんよ。今のところ、好きな男もいないし」
「そう? じゃあ、俺にもチャンスはある?」
勢い込んで言う三鷹を由梨亜は軽く睨んだ。
「またまた、そんなことを言う。からかい甲斐があるのかもしれないけど、良い加減にして。それよりも、三鷹さんは恋人はいるんでしょ」
言ってしまってから、自分の考えのなさに思い至った。
「あ、でも、彼女いたら、その女(ひと)を連れてきて結婚すれば良いだけだものね。私なんかを代役にするからには、三鷹さんも彼女はいないのかな」
慌てて言い足したものの、言えば言うほど墓穴を掘る形になってしまう。
三鷹がニヤリと笑った。
「図星だ。由梨亜ちゃんの言うとおり。これまでに付き合った女性は何人かはいたよ。でも、結婚まで考えたことは正直、一度もないんだ」
由梨亜はますます怖い顔になった。
「まさか、全部、遊びだったなんて言うんじゃないでしょうね」
三鷹はこれには心外だと言いたげに手を振った。
「そんなはずないだろう。これでも付き合った女性たちとは真剣に接していたよ。一人くらいは、まあ、将来のことを考えたこともなかったわけでもないけど、決断するところまではいかなかった。お察しのとおり、今、恋人はいないよ」
「どうだか。皆にその調子でいつも心にないお世辞ばかり言ってたんじゃないの。三鷹さんは好きな女は、今、いないの?」
「俺?」
三鷹は眼を丸くした。どうも想定外の質問だったらしい。彼は少し考え込んだ風情で応えた。
「いるのはいるけど。どうだろうね、相手は俺なんてまるで眼中にないみたいだから、望み薄かな」
「勇気を出して当たって砕けろですよ。さもないと、私のように後悔することになるから」
どうも喋り過ぎだと思いながらも、止まらない。何でも打ち明けてきた母にも話せない胸の内を誰かに聞いて貰いたい想いが勝ったのかもしれない。
「由梨亜ちゃん、そんな男がいたのか?」
三鷹の声が少し強くなったのにも気づかず、由梨亜は頷いた。
「さっきも話した営業部で組んで販促やってたときの相方だけど、その男のことを少しだけ、良いなと思ってたの。まだ愛とか恋とかいう段階じゃなかったとは思うんですけどね。私的には良い雰囲気だと思ってた。休みには誘い合わせてスキーとか行ったりもして。普通、そういうのって、付き合ってるんだと思うじゃない? でも、向こうには全然、その気がなかったみたい。まあ、惚れた好きだなんて科白はお互いに一度も出なかったし、向こうも私を彼女扱いしたこともなかったから、一人で勘違いしてた私が悪いんだといえばいえるかも」
「無責任な男だな」
憮然として言う三鷹を見て、由梨亜は笑った。
「仕方ないですよ。その男を逃がしたくなかったら、私の方から告白すれば良かったんだもの。でも、私は自分の気持ちを彼に伝えなかった。だから、三鷹さんには同じようなことになって欲しくないから、ちゃんと自分の気持ちを相手に伝えた方が良いって思うんです」
「とにかく、そいつが今、ここにいたら、ぶん殴ってやりたいよ。由梨亜ちゃんみたいに良い子をふるなんて、馬鹿なヤツだ」
三鷹は剣呑な様子で続けた。
「そいつはまだS物産にいるの?」
「いいえ、先刻の三鷹さんの持論じゃないけど、彼は先見の明のある人だから、先に辞めました。一時期、自分から退職すれば、退職金を上乗せしてくれるって話があって、そのときにさっさと貰えるものは貰って辞めたの。今は小さい会社を興して、新しい彼女は事務として雇った若い子だって」
「つくづく女を見る眼がないヤツだな、そついは」
三鷹はまだ一人で怒っている。
「慰めでも嬉しいです、ありがとう」
由梨亜は微笑むと、既に空になったプレートを重ねシンクにまで運び始めた。
「手伝おうか?」
「大丈夫。それよりも、三鷹さん、会社に行かなくて良いんですか?」
多少の皮肉を込めても、彼は平然と受け流している。腕時計を覗きながら、彼はぼやいた。
「そろそろ昼休みも終わりだな。名残惜しいけど、行くとするか」
「で、一体、何で帰ってきたんですか? もしかして本当に忘れ物?」
三鷹が情けなさそうな声になった。
「だから何度も言ってるだろ。君の顔を見に帰ったんだよ、由梨亜ちゃん」
「ふふ、冗談がすぎるわ」
由梨亜は笑いながら洗いものに取りかかった。
「全っく、俺はよほど君に信用がないんだな。何を言ったって、ろくに信じちゃくれないんだから」
三鷹が不満げに口を尖らせる。
流しの水を出しっ放しにしていたせいか、由梨亜は彼が足音を忍ばせて近づいてきたのにも気づかなかった。
ふいに背後から抱きしめられて、由梨亜は泡だらけの食器を落としそうになる。
「三鷹さん、約束がちがう―」
「これくらいは許してくれ」
由梨亜の黒髪に顎を埋め、三鷹はしばらく髪の香りを嗅いでいるかのように動かなかった。やがて、彼は由梨亜の髪に軽い口づけを落とし、静かに立ち去っていった。
由梨亜には判らなかった。
三鷹は何故、あんなことばかりするのだろう。幾らからかうにしたって、これでは度を越えている。からかう三鷹の方は何の気なしにやっているのだろうが、由梨亜にしてみれば、その度に心臓は煩いくらいに速くなり、身体は熱くなる。全く翻弄されっ放しではないか。
三鷹は自分の心を好きなように揺るがせることができる。知り合ってまもない偽装結婚上の〝夫〟である彼が既に自分に対して深刻な影響力を持ち始めていることに、由梨亜も気づいていた。
夕刻になった。由梨亜は五時を回った頃、再び病院を訪ねた。
作品名:偽装結婚~代理花嫁の恋~Ⅲ 作家名:東 めぐみ