偽装結婚~代理花嫁の恋~Ⅱ
静かにリビングに戻り、最新型の大型液晶ワイドテレビのスイッチをオンにして、DVDに切り替える。家から持参した秘蔵の韓流ドラマ〝美男ですよ〟をデッキに入れた。
同時に再生が始まり、既に何十回と見慣れた画面が流れ始める。
どれくらい経っていたのだろう。
唐突に背後で男の声が響き、由梨亜は飛び上がった。
「こんなのが好きなの?」
「えっ」
思わず悲鳴のような声を上げると、三鷹が苦笑めいた笑みを刻んでいた。
「そんなに愕いた?」
「だって、後ろからいきなり話しかけるんだもの」
由梨亜が少し涙眼で訴えると、どれどれと三鷹が背後から身を乗り出してきた。
「うーん、なになに、韓流ドラマ、美男ですよ」
三鷹は笑いを含んだ声で言った。
「でも、もう肝心のドラマは終わっちゃってるけど?」
そこで、由梨亜はギョッとした。彼が何か話す度に、三鷹の吐息混じりのハスキーな声音が彼女の耳朶を掠めるのだ。彼の息はかすかに芳醇なワインとメンソールの香りがした。
「いやだわ、私ったら」
由梨亜は頬を赤らめた。
三鷹のことを考えていて、ドラマをろくに見ていなかった。知らない中にドラマはとっくに終わっていたようだ。
「昨夜から色々あったし、疲れてるみたい」
もう寝るわ。
そう言って立ち上がりかけた時、三鷹がソファの後ろを回って隣に座った。
「もしかして、俺はやっぱり君に嫌われてるのかなぁ」
もう、いつもの彼らしい飄々とした態度に戻っている。先刻の彼は全身から研ぎ澄まされた刃のような鋭さを発散させていた。あの彼を見ていなければ、由梨亜も広澤三鷹という男の外見に騙されていたに違いない。
だが、由梨亜は知ってしまった。
三鷹は停止しているDVDを再生させ、早送りで見ている。
ふいに彼がリモコンで画面を一時停止させた。更にそこから再生をかけると、音楽が流れ始める。
「あれ、この曲。どこかで聴いたことがあるな」
しきりに首をひねっているので、由梨亜は教えた。
「私たちの披露宴でかかっていた曲、ほら、キャンドルサービスのときに」
「ああ、あれね」
三鷹は納得したように頷いた。
「俺たちの披露宴で、かかっていた曲だね」
由梨亜はまた顔を上気させた。
「ごめんなさい。私たちの披露宴なんて言い方はおかしいわよね。あれは模擬披露宴で、本物じゃないのに」
三鷹は何かよからぬことを企んでいるといった風に、ニヤニヤしている。
「いや、俺は一向に構わないよ。むしろ、嬉しいな。由梨亜ちゃんがそんな風に俺のことを思ってくれてたなんて」
「ま、まさか。私はあなたなんて、好きでも何でもないんだから。ちょっと言い間違えたくらいで、妙な誤解はしないで欲しいわ」
三鷹がまた笑った。
「別に俺は君が俺のことを好きだと言ったなんて、ひと言も言ってないんだけどなぁ」
まさに、語るに落ちるかな?
三鷹が悪戯っ子のように片眼を瞑るのに、由梨亜は涙ぐんだ。
「酷い」
その間も、パク・シネの透明な歌声がまるでBGMのように聞こえている。
「ああ、泣かせちゃった~」
三鷹が首を振り、次の瞬間、由梨亜の身体はごく自然に三鷹の腕に抱き寄せられていた。
「ごめん、少しからかいすぎたみたいだ。君があんまり可愛いから」
三鷹は由梨亜の背中にそっと手を添え、あやすようにポンポンと背中を叩いた。
「あの歌が好きなの」
三鷹の腕に抱かれ、由梨亜は囁くように言った。
「今の歌?」
「ラブリー・デイっていうの。パク・シネっていう女の子が歌ってるんだけど」
「そうなんだ」
三鷹は片手で由梨亜を抱いたまま、器用にもう一方の手でリモコンをいじっている。
再び最初からラブリー・デイが流れ始めた。
「俺も好きだよ、この曲」
三鷹は曲のことを言ったにすぎないのに、由梨亜は情けなくも頬だけでなく身体中がカッと熱くなった。
「ご、ごめんなさい」
我に返るなり、由梨亜は急いで三鷹の腕から抜け出した。
「今夜、君は俺に何回謝れば気が済むんだ? 別に謝らなきゃならないようなことは何もしてないだろう」
三鷹は音声は韓国語にしたまま、画面を興味深げに見ている。愕いたことに、日本語のの字幕は出ていない。
「もしかして、三鷹さんは韓国語も話せるの?」
三鷹が謎めいた笑みで応えた。
「仕事で色々とね。喋らないといけないんだ。何しろ、君には疑われているけど、真面目な会社員だから」
「凄いわ、英語も話せるし、韓国語も喋れるなんて。一体、何カ国語、話せるの?」
半分は冗談で訊いたのだが、彼は事もなげに言ってくれる。
「うーん、フランス語と中国語、後はイタリア語くらい、かな?」
「凄すぎる。私とは生きてる世界というか次元が違うのね」
由梨亜が嘆息すると、三鷹は意味ありげな笑みを浮かべた。
「ところで、君。何で俺が英語が話せるって知ってるの?」
「え、それは―そのぅ、だから。三鷹さんはニューヨークに長く住んでいたっていうから、恐らくは英語が達者なはずだと」
もう、しどろもどろの由梨亜である。
「君は俺の仕事部屋を覗き見していただろ。由梨亜ちゃん」
念を押され、由梨亜はうなだれた。
「ごめんなさい。今度こそ、謝らなきゃ駄目よね。確かに、あなたの仕事部屋を覗いてたわ。ほんのしばらくだけだけど」
最後に言い訳のように消え入りそうな声で付け加えた。
「いけない娘(こ)だな、由梨亜ちゃんは」
ふわりと身体が浮いたかと思うと、由梨亜は悲鳴を上げた。いつしか三鷹の逞しい腕に抱き上げられ、膝に乗せられていたのだ。
しかも、今更だけれど、彼は風呂上がりなのか素肌にバスローブ一枚纏っただけの姿であった。
「お仕置きだ」
ふいに唇を塞がれ、由梨亜は驚愕した。
「―」
小さな手で懸命に三鷹の胸板を押すが、やはり先日と同じで微動だにしない。三鷹の舌が由梨亜の下唇をなぞる。
その意味が判らず、由梨亜が茫然としていると、三鷹が優しく囁いた。
「口を開けて」
更に愕いた由梨亜は烈しく首を振る。
「キスの仕方も知らないんだ」
特に蔑みのこもった口調というよりは、むしろ愛おしむようなものだったのだが、由梨亜は侮辱された―と屈辱を感じた。
二十七にもなって、キスの経験もないのかと嘲笑われているように思えたのだ。
「仕方ないな」
三鷹が笑い、再び由梨亜を強く引き寄せ、唇を重ねてきた。
「う―」
チャペルでの口づけはほんの一瞬、しかも掠める程度のものだった。あのときにしんと冷たかった男の唇は今、燃えるように熱かった。
執拗な口づけは延々と続き、一旦離れたかと思うと角度を変えて唇を塞がれる。
く、苦しい。
由梨亜は眼に涙を滲ませて、もがいた。
呼吸さえ奪うような烈しいキスの連続で、息ができなくなってしまった。
最早、抗う気力も体力もなくなった由梨亜をそっとソファに横たえ、三鷹は再び覆い被さってくる。由梨亜はあまりの息苦しさに口は半開きになっていた。三鷹はそのわずかな隙間から舌を差し入れてきた。
「―!」
由梨亜の眼が大きく見開かれた。
作品名:偽装結婚~代理花嫁の恋~Ⅱ 作家名:東 めぐみ