偽装結婚~代理花嫁の恋~Ⅱ
三鷹は愉快そうに声を上げて笑いながら、寝室と思しき部屋の前は素通りした。そのことに、由梨亜はかなり安心していた。
偽装結婚をするに際しての懸念事項の中で、セックスの有無はかなり重要な位置を占める。もちろん、二人の間で交わした契約書は法的にも有効なものだし、そのことにもちゃんと抵触している。
つまり、二人の間で偽装結婚が続いている間も、互いに性的行為を相手に強要することはできないという内容だ。由梨亜は三鷹にはっきりと告げたように、基本的には彼を信頼している。しかし、人間という生きものはいつ何時、気が変わるかは判らないし、どんなに理性的な人間でも、魔が差すということは往々にしてある。
だから、三鷹が果たして最後まで約束を守ってくれるかどうか、実のところはかなり不安だったのだ。だが、彼は卑猥な冗談を平気で口にすることはあっても、現実に由梨亜が嫌がるようなことを無理強いする風はない。
現に今だって、寝室を見るのはいやだと言えば、あっさりと素通りしてくれた。
「ここが由梨亜ちゃんの寝室ね」
最後に案内されたのがどうやら自分の部屋になるらしい。入ってみると、ここも広々として内装は淡いピンクとベージュ系を基調としている。ベージュの壁紙にパステルピンクの小さな薔薇が散っている。
ベッドは今、若い女の子の間で流行っている姫風、つまりプリンセス仕様の乙女チックなデザインだ。こちらもリネン類は淡いベージュにピンクの薔薇と壁紙とお揃いだ。
南向きの窓際にベッドが据えつけられており、窓には白いレースのカーテンが掛けられている。
その他には小さな丸テーブルとオシャレでコンパクトなドレッサー、これは姫風のベッドとお揃いらしい。
「素敵だわ」
思わず声に出して言ってから、三鷹を見上げた。
「気に入ってくれて良かった」
三鷹も満足そうな面持ちだ。
「まさか、この部屋はわざわざ内装を変えたの?」
半信半疑で訊ねたら、三鷹はいともあっさりと頷いた。
「幾ら偽装結婚でも、契約が続いている間は俺の奥さんだからね。少しでも快適に過ごして貰えれば良いなと思って」
「嬉しいけれど、勿体ないわ。たった二、三ヶ月しか使わないのに」
三鷹の声が少し低くなった。
「最初は短くても半年は君がここにいると思ってたから。でも、それはもう気にしなくて良い。お袋さんのことがあるんだから、君はやはりお袋さんの許に帰るべきだ」
「ありがとう」
由梨亜が素直に礼を言うと、三鷹は少し面映ゆげに頭をかいた。
「どうもね。言いたい放題の君にそんな風に言われると、こっちの方が照れてしまう」
「広澤さんのお母さんは今、どうしていらっしゃるの?」
「ねえ、その広澤さんていう呼び方、少し変じゃない?」
「そうかしら」
「一応、建前だけでも夫婦なんだから、名前で呼んで欲しいな」
子どもが母親にねだるように言われ、由梨亜は知らず頷いていた。
「判った、じゃあ、三鷹さん?」
「うん、それで良い」
彼は至極満足げに頷いている。
「さっきの話」
唐突に言われ、由梨亜は眼を見開いた。
「俺の母親のこと、訊いただろう」
「ええ。でも、話したくないのなら無理に話さなくても良いのよ」
人間なら誰でも他人に話したくないこと、踏み込まれたくないことはあるものだ。それを無理に訊き出そうとは思わない。
「君って本当に優しいね、由梨亜ちゃん」
真正面から黒瞳に見つめられ、由梨亜は思わず心臓が跳ねた。どうも、この男に名前を呼ばれると、何だか妙に心がざわめいてしまう。それは今まで一度も体験したことのない―浩二と過ごした時間にはなかったことだ。
「一度、お袋に逢ってやってよ。親父にまで逢わせようとは言わないけど、母親なら良いかな」
遠慮がちに言われ、いやとは言えなかった。何より、このときの三鷹の声がひどく淋しげで。
「構わないわ」
「そう、じゃあ、また、お袋のところに連れてゆくよ」
三鷹はそれきり両親の話には触れなかった。
「じゃあ、俺、ちょっと仕事の残り片付けてから風呂入るし。君はどうする?」
「シャワーが使いたいんだけど、あなたの後で良いわ。それまでDVDでも観ていたいんだけど、良いかしら」
「全然、好きに使って」
その言葉に甘えて、由梨亜はリビングに戻りソファに座った。身体が沈み込んでしまいそうなほど柔らかい。恐らく、このソファ一つだけで、由梨亜の家にある古ぼけた家具すべてを合わせたくらいの値段がするのだろう。もしかしたら、それよりも更に値打ちがあるかもしれない。
彼と自分では、あまりに住む世界が違いすぎる。しばらくは病院の売店で買い求めた女性ファッション誌をぱらぱらと捲っていた。
仕事をすると言っていたけれど、本当なのだろうか。その点にについてはまだ半信半疑で、由梨亜は立ち上がると、そっと三鷹の仕事部屋だと言っていた部屋を覗いた。ここは先刻、ちゃんと中に入って見学?している。
他の部屋に比べれば多少、狭いが、それでも由梨亜が自宅で使っていた私室よりは広い。大きなデスクは重厚な造りで、オーク材が何かだろう。その上は整然としており、大きなデスクトップパソコンと傍らにコンパクトなノートパソコンが並んで置いてある。
机の左側の壁が作り付けの本棚になっていて、革表紙の本やら図鑑らしいものやらがこれも隙間なく整頓されて並んでいた。
デスクトップには通信機がアクセサリとしてついており、インターコムまである。愕いたことに、三鷹はインターコムをつけ、何やら話していた。
すべては聞き取れないが、時々、由梨亜にも聞こえてくるのは全部、英語である。
何を喋っているのかは正直、由梨亜には判らない。英検は三級止まりなのだ。
が、三鷹がかなり厳しい表情をしているのであろうことは想像できた。声が由梨亜と話しているときのものとは全然違う。もっと低く、感じとしては誰かに何かを指示しているようなイメージだ。
彼は流ちょうな英語を操りながらも、合間にはパソコンの画面を覗き、素早いタイピングでキーボードを叩いている。
そこで由梨亜はその場から離れた。ドアが細く開いているから、室内は殆ど丸見えだ。由梨亜の立っている場所からは、三鷹の後ろ姿が見える格好になる。
が、幾ら彼が気づいていないとはいえ、他人のプライベートを盗み見するような真似は感心しない。それが嫌というほど判っていながら、自分の知らない三鷹をもっと知りたいと思う自分に気づき、由梨亜は自分でも愕いていた。
由梨亜に接するときの彼から、真面目な会社員というのは到底、想像できなかったけれど、たった今、かいま見たばかりの三鷹なら、信じられるような気がする。いや会社員というよりは、どこかの企業のトップのような―。あのしゃべり方は普段から他人に命令することに慣れた者特有のものだ。幾ら英語であっても、言葉のトーンや響きから判る。
やはり、彼には何かしら秘密があるのだ。
もしかしたら、由梨亜に見せているお調子者で女タラシといういかにも遊び人風の顔は、ほんの見せかけ―素顔を隠すための仮面にすぎないのかもしれない。
由梨亜は初めて知った彼のもう一つの顔に少なからず衝撃を受けていた。
作品名:偽装結婚~代理花嫁の恋~Ⅱ 作家名:東 めぐみ