偽装結婚~代理花嫁の恋~Ⅱ
母も小さく笑って頷き、眼を閉じた。ほどなく安らかな寝息が聞こえてきて、由梨亜は熱いコーヒーを買いに一旦廊下に出た。
その日の午後、由梨亜はN駅近くのN銀行のキャッシュコーナーに寄った。午前中はN病院のドクターに逢い、母の病状について詳しく聞いた。N病院は母が係っている病院なので、医師とも既に顔見知りだ。
銀縁めがねの医師はとりたてて優しいということもなく、極めて淡々と患者に接する。医者特有の傲岸さも皆無とはいえないが、他のいかにも気難しげな医師に比べれば、マシな方だといえた。
かといって不親切でも愛想が悪いというわけでもなく、若いけれど腕は確かだと定評のある医師であった。
医師から聞いた話は悦子叔母の話と大方は一致していた。今回の峠は乗り越えたものの、今後、発作を繰り返す度に母の心臓は弱っていくだろうと、このときだけ医師は少し気の毒そうな口ぶりで告げた。
―何とか薬で発作を抑えるようにこちらも全力を尽くします。城崎さんの場合、まだ年齢的にも若いので、著しい悪化は避けられると思いますよ。
と、最後は励ますように言ってくれるのは、このいつも感情を表にしない医師には珍しいことだった。
発作を抑制するためには、これまでより強い薬を使うことになり、そのために頭痛やふらつきなどの副作用が出てしまう可能性があるとも説明があった。
由梨亜は最後までとうとう訊けなかったことがあった。それは、小さな発作だけでなく、今後は大きな発作も来る可能性があるのかどうかという不安についてだ。
当然、想定に入れておかねばならない問題ではあるわけだが、特に医師が何も触れなかったのだからと由梨亜も敢えて訊かなかったのは、やはり、その応えを聞くのが怖かったからだ。
もっと大きな発作が来れば、そのときは生命取りになるかもしれないなどと宣告されれば、もう二度と立ち直れないような気がした。
そんなことを考えている中に、ついボウとしてしまっていた。
「済みませ~ん、まだですかぁ」
すぐ後ろに並んでいた高校生らしい女の子二人組がしきりに呼びかけている。現実に引き戻され、由梨亜は謝った。
「ごめんなさい」
持参していた通帳をバッグから取り出し、ATMに入れると、ほどなくして記帳された通帳が返ってくる。
最新の欄には、今朝付けで五十万が広澤三鷹の口座から振り込まれたと記載されていた。
昨日、由梨亜の眼の前で三鷹が見せた五十万は結局、彼に持っていて貰った。五十万もの現金を持ち帰るのは気が進まなかったし、そのときはまだ偽装結婚の話をはっきりと承諾したわけではなかったからである。
一日の空白をおくのは賢明な判断のように思えた。幾ら他人を騙すような極悪人には見えなくても、三鷹が本当に五十万を振り込むかどうかについては半信半疑であった。途中で気が変わるということだってある。
念のために、これはどうしても必要な儀式だった。そう、儀式。偽物の花嫁になるためには、あの男が信頼するに足る人間がどうかを十分に見極めなければならない。
やはりと言うべきか、意外と言うべきか、三鷹はちゃんと金額どおりの金を由梨亜名義の指定口座に振り込んでいた。
何故なのだろう。女と見れば愛想を振りまき、節操のない猫のようにすり寄っていくのに、あの男は信用できる―と、心のどこかで確信めいた勘が告げている。
それは妙なたとえだけれど、何かアクシデントが起きる前に感じる予兆めいたものととてもよく似ていた。
あの男は信用できる、約束だけは守る男だ。
並んでいる数字を眺めながら、由梨亜は自分の勘が外れてはいなかったことに確信を深めた。自分の眼に狂いはなかった。
ATMの次は、駅前でクッキーの詰め合わせを求め、一旦、自宅まで戻った。誰もいない家に帰るのはひどく侘びしいものだ。特に今は母が待っていてくれるわけではない。
しかし、そんな感傷に浸っている暇はない。由梨亜は大急ぎで箪笥の引き出しを開け、ボストンバッグに当座の入り用なもの―下着やパジャマ、洗面用具など母の持ち物を詰める作業に没頭した。
昨日は救急車で搬送されたため、何も入院準備ができていない。一時間ほどかかって、やっと必要と思われるものを詰め終わり、また家を出て、きちんと鍵を締めた。
数件先の酒木さんのお宅を訪ねると、母の数少ない友人の一人はぽっちゃりとした顔を曇らせた。
「大変だったわねぇ。お母さんのこと」
「昨夜は酒木さんが母を見つけて、救急車まで手配して下さったったと聞きました。叔母に連絡を入れて下さったのも酒木さんだそうで。本当に何とお礼を申し上げて良いのか、言葉もありません。色々とお世話になりました」
「いいえ、ご近所なんですもの。当たり前のことをしただけよ」
「これは一つですが、どうぞ」
駅前で求めたクッキーを差し出すと、酒木さんは大仰な身振りで手を振った。
「そんな、お礼なんて頂いたら、かえって戸惑ってしまうわ」
由梨亜は真顔で首を振る。
「母はもう十年前から心臓を患っていたんです。ですから、もし発見が遅ければ、最悪の場合もあったかもしれません。私、本当に感謝しているんです。ですから、どうぞ、私の気持ちだと思って受け取って頂けませんか」
そんなことならと、酒木さんは快く受け取った。
「私、そちらのお母さまとはもう長い付き合いになるけれど、心臓が悪いなんて少しも知らなかったのよ。本当に我慢強い方ね。身体の不調など少しも感じさせないくらい、いつもきびきびと仕事をこなしていらっしゃったわ」
母という人の一面を如実に物語る言葉に、由梨亜は思わず涙が出そうになった。哀しいことがあっても、自分ひとりで抱えて、由梨亜を守り抜いてきた強い女性なのだ。
「何か困ったことがあれば、いつでも力になるから、遠慮しないで」
酒木さんはにっこりと笑って言った。別れ際、由梨亜は酒木さんにしばらくは家を留守にすると告げた。
「あら、病院の方に泊まり込むの?」
暗にそこまで悪いのかと気遣わしげに問うので、由梨亜は慌てて言った。
「いえ、付き添いが必要なほど悪いわけではないんです。ただ、家からだと病院まで毎日通うのは大変だし、病院の近くのウィークリーマンションでも短期で借りようと思って」
酒木さんの顔がホッとしたように緩んだ。
「ああ、そこから病院に通うの。ほら、あの新しくできたばかりのコーポラスでしょ。病院の前にあったわね」
「えっ、ええ。そうなんです」
ボロが出ないように話の辻褄を合わせなければならない。
由梨亜の思惑も知らず、酒木さんは微笑みながら頷いた。
「あそこからだと、病院にも会社にも近いから良いわね。でも、若い女の子の一人暮らしは何かと物騒だから、気をつけないと駄目よ。ほら、ああいう短期型のマンションは身元の知れない人が結構いるでしょ。まあ、一ヶ月とか十日単位で住人がくるくる変わるわけだから、よしみも何もないでしょうけど、それだけに戸締まりとか用心には気をつけてね」
「はい、十分気をつけます」
心底から心配してくれている酒木さんを騙すのは気が引けるが、ここはきちんと話をしておかなければならない。
作品名:偽装結婚~代理花嫁の恋~Ⅱ 作家名:東 めぐみ