偽装結婚~代理花嫁の恋~Ⅰ
由梨亜は勝手に判断した。
「判ったわ。話を聞けば良いんでしょ。だから、手を放して、今すぐに」
「本当に逃げないか?」
「しつこいわね。逃げたりしないわ」
よろしいと鹿爪らし顔で三鷹は頷いた。
「まず、君の欲しいものはこれだろ」
と、差し出されたのは、薄っぺらい封筒。
「あの田中って人から預かってきた」
ということは、この封筒の中身は今日の謝礼ということなのだろう。
「じゃあ、早く渡してちょうだい」
由梨亜の鼻息の荒さは、三鷹が中身を今しも横取りしそうだと勘繰っていることが丸わかりだ。
三鷹は苦笑して、由梨亜に封筒を渡した。由梨亜は封筒のあまりの薄さに、つい中身を覗いてしまった。
刹那、今日一日の疲れがドッと出て、その場に座り込みそうになった。早朝から夕方まで拘束され、何度も重たい衣装を脱ぎ着して、更に余計なおまけ―チャぺルでのキスのことである―まで付いてきた代理花嫁を務めた報酬がこの結果とは。
あまりに情けなさ過ぎて、涙も出ない。
「たったの二万五千円なんて、あんまりだわ」
つい本音が呟きとなって洩れた。
「キレイな衣装を着て、記念写真までただで貰えて、しかもフランス料理のフルコースをただ食いだぜ? それで二万も貰えるなら、悪くはないと思うけど」
三鷹が屈託なく言うのに、由梨亜は思わず声を荒げていた。
「あなたと一緒にしないで。ろくに働きもせずに、女にちゃらちゃらと上手いことばかりを言ってるような男とは違うんだから、私は」
「君、俺のこと、相当酷(ひど)い男だと思ってない?」
「だって、事実、そのとおりなんでしょう」
三鷹は呆れたといわんばかりに肩を竦め、首を振った。
「マ、良いか。ところで、これは要るよね?」
三鷹が続いて差し出したのは、少し大きめの茶封筒である。
「今度はなに?」
いささか警戒を込めた視線を向けると、三鷹は笑った。
「俺たちの記念すべき結婚式の写真」
由梨亜は即答した。
「要らないわ、そんなもの」
「君の方こそ、酷い女だな。そこまで露骨に拒絶されたら、俺が傷つくなんて思わない?」
「真実を言い当てられて傷つくくらいなら、初めから、そんな風に堕落しなければ良いのよ」
肩をそびやかして言ってやる。
と、三鷹がクックッと腹を抱えて笑い出した。
「堕落って、君は俺が一体、何だと思ってるんだ?」
「フリーター? もしくは売れないホストってところ?」
どう? と言外に図星だろうと少し得意げに相手を見つめる。
しかしながら、三鷹は笑い転げているばかりである。その実に癪に障る笑いはしばらく続き、由梨亜は憮然としてそんな彼を見つめていた。
「俺がホスト、ホストねぇ。今まで色んなことを言われたけど、流石にホスト呼ばわりされたのは、これが初めてだ」
眼には涙すら浮かべて笑い続けている。
「だって、平日のど真ん中にこうして暇を持て余しているってことは、フリーターかホストくらいのものでしょ。それに、あなたの女の口説き方は一朝一夕では身につかないわ。その道のプロでもない限り」
最後の科白は口にするのもおぞましいと言わんばかりだ。何で、こんな男のことをただのひとときでも思いやりがあるとか思慮深いとか考えたのだろう。とんだ見当違いだ。
「そういう君だって、平日のど真ん中に模擬披露宴の代理花嫁なんてやってるんだから、お互い様じゃないか」
「仕方ないでしょ。会社をクビになったから、仕事を選んではいられなのいよ」
「会社をクビ? どこの会社なの?」
「あなたには関係ない!」
そう言ってから、どうせ、ゆきずりの軽薄な男に何を言おうが、たいしたことはないと半ば自棄(やけ)になって口走った。
「S物産よ、天下のS物産」
「―S物産」
その時、三鷹の形の良い瞳が一瞬、細められた。まるで何かに耐えるようなその瞳に、由梨亜の方が戸惑った。
「何よ、まるで自分がクビになったような顔しないでよね。それとも、あなたの家族とか知り合いとかにも、あそこをクビになった人がいるの?」
おずおずと訊ねると、三鷹は曖昧な笑みを浮かべた。
「まあ、ね。満更、知らないわけじゃない人がつい最近、君と似たような目にあったばかりだから」
ややあって、三鷹が優しい眼を向け、不本意ながら由梨亜の胸は高鳴った。
何て素敵な笑顔なんだろう。そう思いかけ、慌てて自分を戒める。
「ところで、君は優しいんだね」
「何のこと?」
怪訝な表情で応えると、三鷹は頷いた。
「たった今、俺のことを心配してくれただろ」
S物産の名を出した時、三鷹の表情が微妙に揺らいだので、由梨亜は親族か友人に自分と似たような境遇の人がいるのかと想像したのだ。そのことを言っているのだろう。
「まあ、自分がクビを突然切られてみて、初めて失業者の気持ちが判ったっていうところね」
三鷹は肩にかけていたデイパックからまたしても何か取り出した。今度は前回と異なり、かなり厚みのありそうな封筒である。
「じゃあ、尚更、これが必要じゃない?」
由梨亜はおもむろに突き出された封筒を無意識の中に受け取り、その重さに愕いた。
「これって―」
中を恐る恐る覗いて、絶句した。
何と、受け取った茶封筒には分厚い札束が入っていたのだ!
三鷹が淡々と言った。
「現金でざっと五十万ある」
「もし、君が俺の話に乗ってくれたら、前金として、この五十万、更にきちんと約束を果たしてくれた時点で百五十万支払うことを約束する」
「合わせて二百万―、それだけあれば、さっきの披露宴だって、できるわよね」
プッと三鷹が場違いに吹き出した。
「こういう場面で、そういうこと言う? やっぱり、女心は判らないな」
由梨亜はキッと三鷹を見据えた。
「確かに魅力はある話ね。でも、折角だけれど、止めておくわ」
「どうして? 話も聞かないで断るのかい」
「だって、そんな話は誰がどう考えたって、まともじゃないでしょ。第一、きちんとした仕事なら、それだけの大金を積んで、身も知らずの私にいきなり頼むはずがないもの。きっと相当危ない話に決まってる。確かに私は失業したばかりでお金に困ってないわけじゃないけど、他人に言えないような仕事までして、お金儲けをしようとは考えてないの」
「残念だな、これで俺もやっと助けて貰えると思ったのに」
言うべきことは言ったと踵を返そうとした由梨亜が振り返った。
「助ける? あなたが何か困ってるの?」
迂闊にも由梨亜は気づいていない。お人好しの―困っている人間を見ると放っておけない性格を上手くこの男に利用されているのだとは欠片(かけら)ほども考えていないのだ。
「ああ、詳しい事情は話せないんだが、俺自身が今、花嫁の代役を探してるんだ。だから、このまま君と結婚して、君には花嫁のフリをして欲しい」
三鷹の黒い瞳が真っすぐに射貫くように由梨亜を見つめている。
ああ、まるで漆黒の闇に続いているような瞳。じいっと見入っていたら、魂ごと身体まで絡め取られてしまいそうな。
思わず頷きそうになり、由梨亜はすんでのところで首を振った。
「申し訳ないけど、やっぱり私にはできないわ。誰か別の女(ひと)を捜してちょうだい」
作品名:偽装結婚~代理花嫁の恋~Ⅰ 作家名:東 めぐみ