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偽装結婚~代理花嫁の恋~Ⅰ

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 いつまでも過去に拘っていても仕方ない。これからは前を見て歩いてゆかなければ。割り切りの良いのだけが取り柄だと自他共に認めているところであるが、流石に今回はなかなか立ち直れそうにもない。
 由梨亜の側をふいに少し強い風が駆け抜けていった。台風三号の影響で昼過ぎから風が出てきたようだ。風は由梨亜のショートボブの髪を揺らし、気まぐれに通り過ぎていった。
 その時、何気なく前方に向けていた彼女の視線が小さな建物を捉えた。会社からほど近い小さな喫茶店は、浩二と二度だけ訪れたことがある。一度目はお茶だけ、二度めは雰囲気も味も良かったからとランチをしに。
 煉瓦の壁に蔦の絡まる瀟洒な外装は、ちょっと見にはアンデルセン辺りの童話にでも出てきそうなノスタルジックな感じである。真正面には可愛らしい鈴が取り付けられていて、客が扉を押す度にチリチリと愛らしい澄んだ音を立てるのだ。
 扉の側に何やら小さな紙が貼ってあった。
 自慢ではないが、由梨亜は視力だけは良い。小学生のときから両眼とも裸眼で1.5より下がったことがない。その自慢の視力なら、あの張り紙に書いてある字も余裕で読める。
「模擬―」
 小さく声に出して読みかけたその瞬間。
 先刻より更に強い風が吹き抜ける。
 風は壁の張り紙を巻き上げ、剝がれた紙は空高く舞い上がる。
「あー」
 声を上げる間もなく、その紙片は由梨亜の足許に舞い落ちてきた。
 思えば、それも偶然だったのか、運命だったのか。由梨亜は拾い上げた紙を手に取り、ゆっくりと読んだ。
―模擬披露宴に参加して下さる新郎新婦を募集しています!! 年齢 新郎は三十歳くらい、新婦は二十七歳くらいまで 未婚・既婚問いません。 独身女性の貴女、想い出づくりにいかがですか? 素敵なドレスの試着、ご馳走の食べ放題!
  Nホテル 連絡先 担当 田中まで
 
 担当者の名前の後に携帯番号が記されている。由梨亜は大きな溜息を吐いた。
 このチラシの年齢制限でいけば、由梨亜はギリギリで花嫁役の資格があるということだ。今、二十七。来月の誕生日が来れば、二十八歳になる。
 賞味期限も目前ってところね。
 由梨亜は少しだけ自嘲気味に考える。
 由梨亜の母が丁度、適齢期だった頃には〝女の賞味期限は二十四歳〟という言葉が当たり前だったらしい。何故かというと、クリスマスの夜までは定額で売られていたクリスマスケーキが当夜を過ぎると、半値で売りさばかれることになる。
 その二十四日と二十四歳をかけて、女の賞味期限説が出たという。
 由梨亜からすれば、実に馬鹿馬鹿しい―どころか、女性の尊厳を踏みにじる言葉だと思わずにはいられない。結婚するのにふさわしい年齢というのは確かにあるかもしれない。だが、それは所詮、有り体にいってしまえば、生物学的に見た年齢だ。もっと踏み込めば、繁殖能力が最も高い時期に結婚すれば、それだけ後に子孫を残せる可能性が高くなるといえる。
 だからこそ、その繁殖能力の高い時期に結婚しろと言うことなのだろう。
 しかし、母の時代と異なり、今は違う。二十代前半で早々と結婚、出産を経験する女性もいれば、三十代まで自分の人生を愉しみ、四十歳になってから結婚し母親となる人もいる。どころか、結婚せず、シングルライフを貫くのも女性の一つの生き方として認められている時代だ。
 価値観が多様化して、何が正しいとか正しくないとか決めつけることはできなくなった。それでも、まだ由梨亜の母親などは、
―女は嫁いでこそ一人前、女は死に場所を作るためには、嫁に行かなきゃ駄目よ。
 と、顔を見る度にせっついてくる。
 その度に、正直、煩いなと思ってしまう由梨亜である。
 由梨亜の母美佐子は若くして夫を失った。といっても、何も死別したわけではない。由梨亜の父は悪い人ではなかったけれど、酔うと性格がガラリと変わる男性だったらしい。何かにつけて絡み出し、ついには暴力をふるうので、たまりかねた母はまだ幼稚園児だった由梨亜を連れて家を出た。
 以来、母は保険の外交員をしながら、女手一つで由梨亜を育て上げ大学まで出してくれたのだ。母が由梨亜の顔を見る度に、例の〝女は死に場所を〟云々の話を始めるのも心情としては判らなくもない。
 母は自分が苦労しただけに、由梨亜に同じ道を歩ませたくないと思っているのである。いつだったか、母がポツリと洩らした言葉が印象的だった。
―あのまま結婚生活を続けていれば、身体も心もボロボロになっただろうね。私はあの時、お前のお父さんと別れて良かったと思うけれど、女一人で生きていくのは想像以上に大変だよ。時には誰かの胸に縋って、思い切り泣きたいときもあったし、それができないのはとても淋しかったねぇ。
 だからこそ、母は由梨亜に結婚を迫る。
 母の気持ちも判るし、心配して貰えるのは嬉しいけれど、やはり素直に聞き入れられない自分がいる。
 結婚が人生のすべてだなんて、今時、時代錯誤もはなはだしい。そう思いながら、母のように、たった一人で涙をみせる相手もおらず気の遠くなるような年月を過ごしてゆくのも淋しすぎる。
 めぐる想いに応えはなかった。
 由梨亜は会社を出てから、何度目になるか知れない溜息をついた。家で由梨亜の帰りを待つ母には到底、退職したなんて言えやしない。それでなくとも、ここのところ、母は体調を崩しがちだ。もう十年も前に、心臓が弱っているといわれ、二週間に一度は通院しているし、薬も服用している。
 母がここまで体調を崩したのも、ひとえには自分のせいだという意識が由梨亜は拭えない。自分さえいなければ、母の苦労も半分ほどで済んだだろうにと思う。
 どうも息切れがしてならないからと、受診した病院で初めて病名を知った。安静を言い渡されたその日、由梨亜はその想いを母に告げた。
―ごめんね。お母さん。お母さんが体調を崩してしまったのも私のせいだよね。
 すると、母は微笑んで言った。
―何を今更。由梨亜、これだけは憶えておきなさい。人間には苦労を買ってでも、引き替えにできないもの、譲れない大切なものがあるんだよ。私にとっては、由梨亜は、まさにその譲れない大切なものだった。由梨亜がいてくれたからこそ、私はここまで生きてこられたし、仕事で辛いときがあったときも、あなたの笑顔を見たら、涙も引っ込んだ。
 もしかしたら、母がしきりに結婚、結婚という理由もその辺りにあるのかもしれない。
 苦労を買ってでも、引き替えにできないもの、譲れない大切なもの。
 母はよく言う。
―由梨亜のいない人生なんて、私には考えられなかった。
 母にとって、由梨亜は何をもってしても引き替えにできない大切なものであった。そう直截に言われると、照れくさいような嬉しいような気持ちになる。
 確かに、そんな何ものにも代え難いほどの存在を得られるとすれば、人は幸せだろう。人によって、その大切なものはそれぞれ異なるだろうが、母は我が娘をその大切なものと見なしていたのだ。だから、人生の多くの労苦も乗り越えられたと。