エイユウの話 ~春~
「憧れと恋情は違う」
低音の響く声に、ラジィはキサカを見る。先ほどまでラジィを捉えていたはずの瞳は、今は何処も見ていなかった。キースに向いていた顔も、今はただただ前を向いている。目をつむっているわけでもなく、強いて言えば、窓の外を見ているようだった。しかし、その言葉はラジィにしか響かない。
「あんな人が良いなんて思っている内は、結局憧れだ」
彼女が傷つくと、解っていた。だからキサカは、彼女のほうを見ることが出来なかったのだ。それでも言葉を止めることは、彼の考えを否定する気がして、ブレーキをかけることも出来なかった。
「・・・解っているわよ、そのくらい」
自分の声で打ち消そうと思ったラジィだが、キサカの言葉に首を絞められ、発声が遅れた。泣けない事を悲しむような表情で、ラジィはキースを見る。静かな色の保健室が、彼女を閉塞していた。
「でもその境界線は、驚くほど低いんだもの」
それは言い訳などではなかった。ただ、思いついた言葉を考えもせずにこぼしただけである。ラジィの気持ちは、「あの人のことが好きなのだろうか」というラインで揺れ動いているのだ。それに気付いたキサカは、困惑したように溜め息をついた。自分の観念に縛られているのが自分だと解ってしまったからである。しかしそれをあきれの溜め息だと感じたラジィは、何も言わずに走って保健室を出て行ってしまった。バタンという大きな音が、静かな保健室を揺らす。
「何なんだよ、一体」
キサカは恋愛が解らない。けれど多分それは、キサカだけでなく、多くの人が悩む疑問なのだ。彼はまったく知らないが。
でも、とキサカは思う。
自分のためにこんな有様になるやつがいるのに、どうしてそれを平気で否定出来るんだよ?
苦しみに胸を締め付けられるような気がして、キサカは祈るような体制になった。すると、くすくすと笑い声が聞こえてくる。
作品名:エイユウの話 ~春~ 作家名:神田 諷