泡影
「会ったこと、あるんだよね?」
そう問いかけてみたけれど、狐の面は答えなかった。肯定しない。否定もしない。目の前に立つお面の男に、どこかで会った気がするのだけど。
「だめ。わかんない」
視線を下げると、水の上。薄らいでいく影一つ。闇に滲んで、淡く溶け出す。
「早く」
男の声が荒くなる。
吊り上がった狐の目。その向こう側にある感情が、読み取れなくて怖くなる。
吊り上がった狐の目。温かくもなく、冷たくもなく。
「早く」
揺らいで滲む、水上の影。狐の影は映らない。
こわい。
気がつくと、走り出していた。靴底が水面を叩くたび、水の雫が舞い上がる。無彩の空に跳ね上がる。浮かび出る。
「早く。早く」
掠れた声が追ってくる。藍の羽織が翻る。
「早く、名前を」
籠目を抜ける方法は、誰かの名前を当てること。ヒトの名残が消え去る前に。
私は、狐を知っている。
「だめ。思い出せない」
知っているけど、わからない。
まるで、記憶を封じられたらよう。知った名前が浮かばない。
「名前を」
足元の影が薄くなる。籠目の中に、引き込まれていく。
狐きつね。あなたはだぁれ?
「暗きより…」
掠れた声が、言葉を紡ぐ。落ち着いた声。よく知った声。全力で走る私を追っていても、息一つ乱れていない。
「暗き道にぞ 入りべき」
和歌。
上の句の、十七音節。その言葉。記憶の端に引っかかる。
彼がよく、口にしていた。
遙かに照らせ、山の端の…。
影揺らぐ、水の上。私は足を止めた。
立ち止まった私の周りを、狐が回り始めた。くるり、くるりと。円を描いて。
籠目籠目
籠の中の鳥は
いついつ出やる
夜明けの晩に
鶴と亀が滑った…
「後ろの正面、だぁれ?」
落ち着いた声で、わらべ歌。歌った狐は、私の後ろでぴたりと足を止めて言う。
「俺だよ」
すぐ後ろから、よく知っている声がした。
「…竟(つき)?」
答えた瞬間、地面が消えた。気付いた時には水の中。