泡影
目の前で、藍の羽織が揺らめいている。水の中。足元から立ち上る無数の泡が、竟の姿を霞ませる。大きな手が、面長な狐の面を外して見せた。
色白な顔が現れる。見知った顔が、現れる。
「やっぱり、竟だ」
私の目の前に立つ竟は、その口元を緩ませた。どこか悲しげ。淋しい笑顔。
竟がいなくなったのは、冬の初めの頃だった。
どこにでもある、都市伝説。夕暮れ時の、神隠し。
ずっと探していたんだよ。
「こんなとこにいたんだ。竟」
かごめかごめ。籠の中。
「一緒に帰ろ」
手を差し出す。けれど、竟はこたえなかった。
「帰れない」
「何で…」
言った瞬間、竟の手が私の伸ばした手を取った。
大きな手。冷たい手。温度の感じられない手。生きる力を、感じられない。
「捕らわれたから、帰れない」
籠の中。闇の中。走った水面。水鏡。そこには竟は映らなかった。狐の影は、映らなかった。
現のものではない証。
「栢、元気で。気が向いたら、驚かせに行ってやるから」
竟は苦笑に近い笑顔を浮かべ、私に向かって手を振った。
「竟っ…」
叫んだ瞬間、足が浮いた。
足元から立ち上る泡に、水面に向かって押し上げられる。反対に、竟は水底に沈んでいった。
闇の底へと伸ばした手。指先は、今は届かなかった。
「いつか、どこかで会えるから」
死にゆくこととは、違うから。落ち着いた声。竟の声。
掠れた声が、言葉を伝えた。
その穏やかな調子の声は、暗闇の中を仄かに照らす月の光のようだった。
出典
暗きより暗き道にぞ入りぬべき遥かに照らせ山の端の月
和泉式部。拾遺和歌集より。