泡影
都市伝説。みたいなものだったと思う。
夕暮れ時の、神隠し。
逢魔が時に出会う人。名前を言ってはいけないよ。すぐに逃げなきゃいけないよ。名前を呼ばれちゃいけないよ。
名前を呼ばれてしまえば、最後。呼ばれた人は、神隠し。
どこにでもある、都市伝説。
彼がいなくなったのは、冬の初めの頃だった。夕暮れ時の薄暗がりの様子だとか、小さな子供に話しかける様子。薄闇に隠れそうな、優しげな笑顔。それが、ほんの少し。消えていく夕日の最後の光を見送った、ほんの一瞬の後。目を戻した時には、町の景色のどこにも彼はいなかった。
私はあの時のことを今でもよく覚えているはずなのに、自分が同じ立場に立ったとき、神隠しの噂なんて思い出しもしなかった。これっぽっちも。
彼もそうだったのだろう。神隠しなんて、信じてなかったのだろう。だってこんなの、少しも現実味がない。
空が見える。月のない、夜空。闇の黒と、雲の灰色。濃淡だけで描かれた、無彩色の空。
いつの間に眠っていたんだろう。気がつくと、闇の中にいた。体中に纏わりつくような漆黒は、どこかさらりとしていて、どこか重たい。
何かが動いた。視界の端で。
何かが聞こえた。微かな声で。
辺りは暗闇。静かな風が、流れるように走っていった。
辺りは暗闇。見えない何かが、流れるように走っていった。
目を凝らしても、何も見えない。
耳を澄ましても、何も聞こえない。
どこか、淋しい場所だった。
立ち上がった瞬間、水の跳ねる音がした。見下ろせば、水鏡。自分の姿が逆さに映る。その周りには、見慣れた町並み。慌てて顔を上げるけど、あるのは暗い闇ばかり。水面(みなも)の裏側。闇に落ちたとようやく気付く。
今度こそ視界の端を、何かが過ぎった。おかっぱ頭の女の子。
今度こそ耳元に、音が届いた。からからと廻る、かざぐるま。
幼い笑い声と共に、子供が一人、駆けていく。赤い小袖が翻る。巻き起こる風。かざぐるま。
からから廻るその音に、淋しさ募る。手を伸ばす。
「待って…」
慌てて追いかけようとした。けれど。
「追うな」
静かな声。落ち着いた声。掠れたような、声がした。同時に腕を掴まれる。大きな手。冷たい手。温度の感じられない手。突然のことに、総毛立つ。
「追うな」
もう一度言われた時には既に、小袖姿は消えていた。闇夜に紛れて消えていた。
振り返ると、人影が一つ。自分と同じ年頃の。
藍で染められた、和風の羽織り。刈り込んだような短い髪は、くすんだような闇の色。顔は、まるきり反対の真っ白な面で隠されていた。
面長な形。天辺の耳。吊り上がった目と、描かれた針金のような細いひげ。狐の面。
両の目元に一筋ずつ、差された朱色が目を引いた。
「誰…?」
考えるより一拍早く、言葉が口から零れ出る。その言葉。違和感を持つのは、どうしてか。
吊り上がった狐の目。その向こう側に淋しげな視線を感じたのは、どうしてか。
「名前は、教えない。それが掟だから」
掠れた声で、彼は答えた。狐の面には、感情がない。相手の顔も、見えはしない。
「取られた名前は名乗れない。俺も、君も」
狐の面が、言葉を紡ぐ。
「かごめかごめは、囲め囲め。捕らわれた者は逃げ出せない」
かごめかごめ。籠の中。闇の中。小さな子供が駆けていく。夕暮れの町の片隅に、うずくまってた男の子。名前を呼ばれた。確かに呼ばれた。
「私も、捕らわれた?」
「君はまだ」
狐の面は、頭(かぶり)を振った。そう呟いて、足元を指す。
水鏡。逆さの世界。背中を合わせ。こっちは暗闇。向こうは現(うつつ)。私の影は、現に映る。ふと見ると、狐の姿は映っていない。捕らわれたんだ。完全に。
「籠目を抜ける方法は、誰かの名前を当てること。君の名残が消え去る前に」
足元の影がなくなるまえに。
吊り上がった狐の目。その向こう側に温かな視線を感じたのは、どうしてか。
「大丈夫」
静かな声。落ち着いた声。聞き覚えのある掠れた声が、はっきりと耳に言葉を伝えた。