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伊藤ヘルツ
伊藤ヘルツ
novelistID. 22701
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眠り姫は堕天使の夢を見るか?

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 目の前に舞い降りた少年は、あの時と同じ優しい瞳で微笑んでいる。そして私の隣へ座り、そっと肩を抱いてくれた。その瞬間、鬱蒼とした黒い森に光が差し込んだ。優しい光。全てを包み込んでしまいそうな柔らかな光。私は彼にもたれかかる。そして泣きながら眠りの国へと吸い込まれて行く。

 10 光の向こう側

 セラピーを終え、椅子に身を任せている私。ゆっくりと瞬きをする。呼吸を一定に保つ。やがて徐々に覚醒に導かれる。点だった視界が開けてくる。そう、アイリスのように。
 熱いくらいに私を照らす白熱灯。診療室にはそれ以外の光源はない。光の外側はあの黒い森と同じ。陰鬱ではあるけれど、どこか懐かしい闇。私は捨て猫のように目を細めて先生を捜す。
 退行催眠によるセラピー。断片的なエピソード。私の過去を共有した先生には、病の根元が見えてきたそうだ。私は改善の方向に向かっているらしい。
 ただひとつ。頻繁に登場する天使の存在だけは、解析が難航しているそうだ。自己防衛の現れ。つまり私は、架空の対象者を生成することにより、無意識のうちに心的苦痛を軽減させている。それが先生の当面の考え。でもそれは違う。だって彼は過去ではなく現在だから。それは紛れもない事実。
 光の向こう側から先生の端正な顔が現れる。そして「順調よ」と囁く。きっと私の表情を読み取ったのだろう。私の髪を優しく撫で、微笑む先生。子供扱いされているようで、少し面白くない。けれど、しなやかな五本の指が心地良い。
 ふと私は気付く。先生がイカロスのネックレスをつけていないことを。ディープブルーの石。金色のイカロス。私がたずねると、少し寂しそうな顔をして「失くしてしまったの」と言った。
 そして先生は、思い出したように私に告げた。父が来週面会に来ることを。

 11 セラピー

 トーストとサラダ。そしてコンソメスープ。静寂に包まれた部屋の中で食事を摂る私。スープから立ち上る微かな湯気。その湯気が、目の前の壁に大袈裟に投影されている。
 父が出て行った部屋。鍵のかかった部屋。あのドアは開かない。私にはあのドアは開けられない。
「ねえ、開かない扉の話しを知ってる?」
 私は誰とはなしに問いかける。
「決して開くことのない扉の話し」
 窓辺に近づく私。外は大分前に日が沈み、街の明かりだけが見える。
「その扉の内側には、一人の女の子が住んでいました」
 クリスマスツリーの飾りのような夜景。そんな偽りにも見える景色に自分の顔が重なる。
「女の子は、来る日も来る日もその扉の内側で暮らしていました」
 目の前の自分と目が合う。
「夕食の時間になると、お父さんが遊びに来るの」
 目の前の自分に微笑みかける私。
「夕食が終わると、私はまた一人きり。ううん、縫いぐるみと一緒だから二人きり」
 すると目の前の自分も、私に微笑みかけた。
「学校へ行く時間になると、お父さんが迎えに来るの」
 自分と同じような仕草をする目の前の自分が、妙に滑稽だった。
「学校から帰ると、私はまた扉の中」
 ゆっくりと窓へ顔を近づける私。目の前の自分も当然のように、けれど私と同じテンポで顔を近づけてくる。
「まるでかごの鳥みたいね」
 そして目を閉じ唇を重ねる。

 浅い微睡みから覚醒し、窓の外にあの少年を見る。翼をゆっくりと前後に揺らし、いつもの優しい笑みを浮かべて私を見ている。
「まるでかごの鳥みたいね」と私はまた呟く。
 すると少年はゆっくりと首を横に振った。

 12 中庭にて

 両手でクマの縫いぐるみを抱きかかえる私。正面に見える天使の彫像。風化した片翼だけの天使。
 隣にはスーツ姿の父がいる。何も喋りはしなくても、確かな存在感を私に与えている。威圧的なイメージ。心の底に沈殿している不安定な想い。巨大な深海魚が通り過ぎ、水圧でその沈殿物がかき乱される。
 私達は、もうこうして三十分近くベンチに座っている。数ヶ月振りに会った父。でも私は、ずいぶん昔に父の顔を忘れてしまっている。確かに一緒に暮らしてはいたけれど、視線を交わすことは耐えられなかった。生暖かい空気で、肺が満たされていくような息苦しさ。私の体にかかる圧力。足に重りをつけられ、水中に沈んで行くようなイメージ。
 でも隣にいるのは確かに父。それは父の醸し出す雰囲気でわかる。私の中の人を識別する機能。それとは別の部分で認識する。ううん、認識させられるのだ。
 そして私は、注意深く視線だけを横に向けてみる。少しでも動いてしまうと、この状況が悪化してしまいそうだったから。父のゴツゴツした手が視界に入る。岩のような手。
 その手を見つめているうちに、私は意識が遠のき始めるのを感じる。五感が別の場所へ誘導される感覚。自分の体が、他人のそれと思えてならない。私の心が今にも現実を遮断してしまいそう。風化した天使の彫像が幾重にも重なる。雲の流れが加速する。太陽が雲に隠れるたびに、視界が壊れた蛍光灯の様な点滅を繰り返す。
 突然、父の手が私の腕へ回される。その瞬間、私の中の威圧的なイメージが激増する。消火栓の赤ランプ。高鳴る鼓動。全身の血管が血液の流れを感じ取る。開きつつある瞳孔と汗腺。父の指が腕に食い込み痛む。黒い森の中で、あの少年に包まれた感触とはだいぶ違う。
 縫いぐるみをきつく抱きしめる私。子供の頃に父が買ってくれた小さな縫いぐるみ。継ぎ接ぎだらけのテディベア。
 そして父がゆっくりと口を開く。私が眠っている間に何度も面会に訪れたこと。私が心配で食事もままならないこと。先生に何度も退院を却下されたこと。父の口調は急速にテンポを増していく。
 腕に回された手。その岩のような手が徐々に這い上がってくる。そして私の髪に触れる。父の腕力により、私は父の肩に頭を預ける格好になる。
 寂しくないか? 療養の方はどうだ? 毎日何をして過ごしている? 食事はしっかり摂っているか? 体調は、気分はどうだ? 学校の方には休学届けを出している。様々な問いかけに答えあぐねる私。
 父の手が私の髪を撫でる。でもそれは、あの薄暗い診療室で先生に撫でられた感触とはだいぶ違う。
 そして父は別れ際に、明日のセラピーを最後に、私を退院させる事を告げた。

 13 継ぎ接ぎだらけのテディベア

 カーテンを開ける私。夜のガラスに映る自分。そしてその後ろには病室の風景。冷たいガラスに隔たれた二つの世界。ううん、リノリウムの床にももう一つ。だから三つの世界。
「私はあなた達の言うとおりに動く」とガラスに映った自分と床に映った自分に呟く。
 正面の自分が瞬きをしたら、私も瞬きをする。
 正面の自分が悪戯に舌を出したら、私もそうする。
 床に映った自分が歩き出したら、私も歩き出す。
 でも……誰も動かない。みんな誰かが動き出すのを待っているだけ。
 バカバカしくなってベッドへ身を投げる私。その反動でスプリングが軋み、クマの縫いぐるみが飛び跳ねる。
 私はなぜこんなものを大切にしているの?継ぎ接ぎだらけのテディベア。父が私に買ってくれた唯一の縫いぐるみ。そしてこの子は全てを悟る傍観者。
『しかしその機能が最大限に働いた場合、意識を戻すことは極めて困難とされている』