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伊藤ヘルツ
伊藤ヘルツ
novelistID. 22701
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眠り姫は堕天使の夢を見るか?

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 そんな光景にも関わらず、病院の外側には何の影響も及ぼしてはいない。そう、無機質な無言劇には、やはり突発性など用意されていなかった。

 6 私というデバイス

 当時、父からの捜索願によって、私は真夜中の教室で保護された。誰もいない教室。月明かりの差し込む一番後ろの席。自分の机に伏せた私は昏睡状態だった。
 施された様々な応急処置。動揺を隠しきれない父。真夜中の教室を走り回る救急隊と警官。そんな異様な風景の中、眠り続ける私。
 結局その場の処置ではどうすることもできず、私はこの病院へ運ばれて来た。そしてそれから更に一ヶ月間眠り続けた。

 目覚めた私を待っていたものはセラピー……つまり治療。日々繰り返されるセラピーの中で、先生は私の心の中を探査した。そう、少しずつ。決して急がずに。私の呼吸のリズムに合わせるかのように。
 そして先生の繊細な導きによって、徐々に重い扉を開く私。先生はその隙間から私の中へと入り込み、私と同期を取る。ううん、私というデバイスを先生と共有するイメージ。一体となる私達。
 重度の現実逃避症候群、または現実遮断症候群。それが数ヶ月間カルテを取り続けた先生の答え。
『人間には度重なる外的、または内的苦痛に対して、心神をガードする機能が備わっている。つまり許容を越えた苦痛から心神の崩壊を防御するために、脳が意識を遮断してしまうことがある。日常生活における疲労感の中には、それらの機能の一番軽い症状を含むケースが少なくない。しかしその機能が最大限に働いた場合、意識を戻すことは極めて困難とされている』
 私に私自身の事を優しく丁寧に教えてくれた先生。私は何も考えず、先生に従っていれば良いのかもしれない。
 ……従う? ……誰に? ……父に?

 7 セラピー

 黒い森の中を走る私。倒木や石に躓かないように、でも決してスピードは落としてはいけない。そう、私は誰かに追われている。草木を掻き分け、枝を踏みならし、私は全速力でその誰かから逃れようとしている。枯葉にまみれた髪や制服。足手まといな学生鞄。走りづらい革靴。でも、そんな事を気にしてはいられない。
 木々の黒い葉の隙間から見える蒼冷めた空。私には気の遠くなるような遠い場所。今すぐ大きな鳥になりたい。シンドバットの物語に出てくるような怪鳥に。そして森を突破して、あの空の彼方へ飛んで行ければ……。
 私のすぐ後ろで聞こえている誰かの足音。あなたは誰? なぜ私を追いかけ回すの?
 体力が限界に近づいた頃、ちょっとした突起物に躓き、私は急な斜面を転がり落ちていった。

 気が付くと辺りは不気味なほど静まりかえっていた。どうやら追っ手は私のことを諦めたようだ。
 暗闇の中で体を起こす。けれど右足首に激痛が走り、再びその場にしゃがみ込む。
 あれは父だ。父に違いない。私を連れ戻しに来たんだ。再び私をあの扉の内側に閉じ込めるために。
 目が慣れてくるとともに、徐々に周りの風景が見えてきた。乱立した樹木、堅牢な岩、這い回る蔓、その蔓を覆い隠すように降り積もった枯葉。
 その時、前方で何かが動いた。十メートルほど先に一際大きな岩がある。その岩の上に誰かがいる。天使だ。天使がこちらに背を向けて座っている。小さな背中から生えている白い翼。でも、片方の翼は途中から折れてなくなっている。その翼は、この鬱蒼とした黒い森の中では、唯一の清らかなものとして私の目に映る。
 これで三度目の出逢い。

 8 折れた翼

 一週間前の事件は、様々なメディアで取り上げられた。今でも私の周辺には、その名残が息を潜めている。忘れ去られてしまった過去の出来事のようにも感じるけれど、誰もがその話題を避けているだけ。私は少年の折れた翼を探し出すために、あの場所まで脚を運ぶことにした。

 病室で聞いていた喧噪が現実味を帯びる。車のクラクション、排気ガスの匂い、カラスの鳴き声、街に溢れる音楽、足早に通りを歩く人達。そしてその人達の靴音。私のいるこちら側と、通りを隔つゴシック調の鉄柵。その鉄柵越しに、今日も演じられている無言劇。
 私の部屋の丁度真下。コンクリート部分にできた赤茶色の染み。その染みを見て立ちつくす私。それは紛れもなくあの少年の証。彼がこの世界に存在していた最後の証。
 そしてその染みの周りには、彼を象ったスノーホワイトのチョーク。有機的な曲線。でもそこには翼が欠けている。改竄された情報。欠落した事実。でも真実は私の中にある。白鳥の様に大きな翼。飛ぶことのできなかった天使。私は石ころを拾い翼を描き足す。チョークの線とは確実に異なったシャープな翼が完成した。
 いつもと何も変わらない風景。変わった事と言えば、私が一歩それらに近づいたこと。それ以外は何も変わらない。例え私が更に近づいてみたとしても、何も変わらない。昨日と同じ時刻の通行人。そして同じタイミングでカラスが鳴き、クラクションが鳴る。ただそれだけ。
 足を止め、鉄柵の隙間から中を覗き込む人など誰もいない。なぜなら、みんなあの少年の存在を忘れてしまったから。この世界にあの少年が存在していたことを忘れ去ってしまったから。赤茶色の染みとチョークの跡。でも私はあの少年の事を忘れない。なぜなら私に笑みをくれたから。
 私はそんな事を考えながら、翼を探していた。

 9 セラピー

 黒い森の中。足を挫いて座り込んでいる私。無理に立ち上がろうとすると、途端に足首に激痛が走る。その痛みから上を見上げると、黒い斑模様の隙間に空が見える。透き通った空と足首の痛み。地の底に落ちてしまったような焦燥感に襲われる。
 そして私は、誰かに追われていたことを思い出す。ううん、誰かではない。父だ。父が私を連れ戻しに来たのだ。背理という名の部屋。あの扉の内側に再び私を閉じ込めるために。
 少年は……相変わらず私に背を向けて岩の上に座っている。身じろぎもせずに……だけど翼だけは微かに動いている。まるでそれ自体が呼吸をしているかのように。
 あの少年と話しをしてみたい。でも歩くことができない。そのジレンマから涙が溢れ出す。暖かいそれは頬を伝い、私の細い顎へ到達し、そして雫となって手元へ落ちる。
 そのサイクルが速くなった頃、私は声をあげて泣いていた。森中に響き渡るような泣き声で。飛び立つ鳥の群。父がまだ私を追い続けているとしたら、自ら居場所を教えてしまうことになるかもしれない。でも泣き声は止まらない。
 私の声に気付き振り向く少年。涙で歪んだ視界。全ての事象は不確かなオブジェへと変化する。水中を漂うクラゲのようにゆっくりと舞う少年。私の泣き声で乱してしまった森の秩序。それを宥めるように両手を広げている。
 この小さな体の中に、どのくらいの涙が溜まっているの? 止めどなく流れる私の涙。この涙は瓶に溜まった背徳の排水なのかもしれない。だとしたら全て捨ててしまいたい。全て流し去ってしまいたい。それまでに一体どのくらいの時を要するの? 声を押し殺して泣く私。