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伊藤ヘルツ
伊藤ヘルツ
novelistID. 22701
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眠り姫は堕天使の夢を見るか?

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 帰宅後、いつの間にか眠ってしまった私。部屋に差し込むオレンジ色の夕日。単色の世界に、私と父のコントラストが強調される。
「おかえりなさい」と私は言う。でも父は何も答えない。その代わり、私の肩を掴んだ手が少しだけ緩む。
 そしてオレンジ色に染まった父の顔が近づく。汚れに満ちた吐息が私を拘束する。重なる二つの影法師。父の視線。父の息使い。父の匂い。それらすべてを遮断するために、私は人形と化す。ううん、人形に徹する。人形は心を持たない。だから僅かな感情の漏洩も許されない。
 テディベアは傍観者。私達を見つめる黒いガラス玉の瞳。私はその瞳を見つめながら、ただひたすら待ちわびる。短い時の中で、気の遠くなるような終末を。

 3 風化した天使の彫像

 カーディガンを羽織り、廊下へ出る私。白い風景は、そのままリノリウムの床に逆さまの世界として映し出されている。まるで朝靄に包まれた湖面。少しでも身動きをしようものなら、たちまち水中に引きずり込まれてしまいそう。
 意を決して恐る恐る歩き出す。そんなおぼつかない私をよそに、行き交う人達は上手に湖面を渡っていく。私に手を差し伸べるどころか、一瞥をくれる人すらいない。
 窓から見える灰色の空。その空に侵食された雲。自らの形状を変化させ、ゆっくりと動いている。そんな空を見ていると、私の周りだけが酷く早回しな印象を受ける。
 一階へ続く階段に到達した頃、前方にいる一人の少年が目に入った。その少年もまた、私と似たような歩き方。両手でバランスをとりながら、一歩一歩ゆっくりと歩いている。
 その不器用な歩き方に、偏愛な笑みがこぼれる。そう、私も同じ。私もかろうじてここまで辿り着いたから。だから気をつけて。湖に沈んでしまわないように。逆さまの世界に引き込まれないように。
 少年とすれ違う時に、何気なく床に目を落として私は驚く。逆さまの世界に映る少年。その少年の背中には、白く大きな翼が。それは天使のように清らかで美しい翼。
 とっさに顔を上げ、少年の顔を見る。優しい笑みを浮かべて私を見つめる少年。

 周囲を病棟に囲まれた、十メートル四方の中庭。日差しはその中庭の半分を照らし、無数の窓には灰色の空が映り込んでいる。小さな世界。そう、箱庭の中に迷い込んでしまった感覚。辺りを見回すまでもなく、ここには誰もいない。誰もいない箱庭。
 ゴシック調のベンチに座る私。鉄のベンチからは、秋の冷たさが伝わってくる。だからその冷たさを紛らわすために、中央の噴水を眺める。手入れの滞った枯葉まみれの噴水。もちろん水は出ていない。
 その噴水の真ん中に設置された彫像。片方の翼が折れ、土色に風化した天使。両手に瓶を抱え、水遊びでもしているような格好。でもその表情からは何も読み取れない。楽しげでも、悲しげでもない。それは翼が折れてしまったせい?
 彫像が、ゆっくりと病棟の影に覆われていく。影の面積が増えるにつれ風化が目立ち、どことなく不気味な印象を受ける。
 そして私の座っているベンチが影に包まれた頃、私は初めて来たこの中庭に大した感動も覚えず病室へ引き返した。

 4 セラピー

 ふと机から顔を上げると、授業が始まっていた。数学の授業。黒板に書き連ねられた意味不明の数字や記号。あの記号は何だったかしら? そう、コサイン。あの数式は……ド・モアブルの定理。
 複素数、複素平面、一次関数……教師の口からは難解な言葉が飛び出し続ける。
 ローズピンクやソフトイエローのチョーク。消しては書き込まれる数式。
 スカイブルーやライトグリーンのチョーク。それを必死にノートに書き写す生徒達。
 シャープペンシルとチョークの滑る音が、私を眠りの国の入口へ立たせる。
 等角写像、初等関数……
 振り向いた教師の顔には見覚えがあった。肩にかかった髪、人の心の深い部分まで見透かしたような瞳、難解な言葉にはそぐわない赤い唇、そしてイカロスのネックレス。
 コーシーの積分定理、テイラー展開……
 そのネックレスと教師の顔を交互に見比べる。やがてそれぞれの残像が重なり合う。それは壊れた映写機のような頼りなさ。青ざめた教師の顔が歪む。そして視界が霞む。私はまた眠りの国へと吸い込まれて行く。

 人形に徹しきれなかった私。頬を伝う涙。きっと私の瓶に溜めていた涙が、溢れてしまったのだろう。そう、それは背徳の排水。きっと濁った色をしているに違いない。
 背理と言う名の部屋。父のグローブのように大きな手が私の髪を梳く。混沌とした時間。不規則な秒針の音。万物の根元としての無。
 オレンジ色の空は、いつしか冷たい夜の色へと変わっている。窓から差し込む月明かり。こんな私達にも、月は平等に光を注いでくれる。
 スーツの皺を正す父。そして私に背を向けてゆっくりと去って行く。規則正しい歩調。革靴の乾いた足音が響く。そして静かに扉が閉まる。その数秒後、カチャリと鍵のかかる音。
 扉に走る私。扉を開けようとする私。でも扉は開かない。いくら叫んでも父には声が届かない。いくらドアを叩いてみても誰にもその音は届かない。
 私は机へ戻り、冷めた食事を摂る。トーストとサラダ、そしてコンソメスープ。

 5 堕天使

 病室の窓から、ぼんやりと外を眺める。今日もいつもと何も変わらない風景。
 行き交う人々の中から、ターゲットを決めて目で追う。でも途中で見失ってしまった。似たような人が多すぎて見失ってしまう。その時点で、また別のターゲットを選ぶ。新しいターゲットは、さっきのターゲットとは逆の方向へと歩いて行く。だけどやはり人に紛れて見失ってしまう。そう、保護色に身を変えた被食生物のように。
 みんなそんなに急いでどこへ行くの? 行き先には何があるの? 誰が待っているの?
 灰色の空の下で演じられる無言劇。観客は私だけ。このまま何も変わらないと思っていたストーリー。でもそれは私の一方的な思い込み。
 そう、それは一瞬の出来事。
 突然空から何かが落ちてきた。何か……それはぶれた写真のように頼りない被写体。窓から外を眺めている私。私の目の前をその『何か』が通り過ぎようとしている。
 そう、それは一瞬の出来事。
 その『何か』が丁度私の目の高さまで来た時、それが人間の子供であることがわかった。そしてその子供と目が合う。優しい目をした男の子。私に微笑みかける。確か以前、こんな目を見た記憶があった。こんな優しい顔を見た記憶があった。
 そう、それは一瞬の出来事。
 街中に響き渡るような大きな音と共に、微かに地面が振動する。そして数多くのカラスが、灰色の空を目掛けて飛び立つ。
 我に返り、窓へ乗り出し地上を見る私。遙か下の地面に横たわる子供。赤い絨毯の上で微動だにしない。
 そして私は気付く。彼は間違いなく、昨日廊下ですれ違った少年。なぜなら彼の背中からは、昨日と同じように天使の翼が生えていたから。でも中庭の彫像の様に、片方の翼が欠けている。イカロスの翼のように溶けてしまったのだろうか?
 病棟から飛び出してくる大勢の白衣達。巣の異変を感知し、ゾロゾロと溢れ出すシロアリのよう。走り回る人、しゃがみ込む人、遠巻きに静観する人、何かを必死に叫ぶ人、そこには様々な白衣がいる。