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中川 京人
中川 京人
novelistID. 32501
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闇から得た闇

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この部屋に引っ越してきて、まだふた月もたたぬというのに、はや生活に倦み疲れた。
 六畳一間の中ほどで仰向けになり、きょうびあり得ぬ田の字に仕切られたガラス窓越しに、歪んだ遠い雨雲を眺めて嘆息しているのである。
 あるひとは「雨音はショパンの調べ」とおっしゃった。
 無理に聞こうとすれば、そう聞こえなくもないが、同時に、この二軒長屋の相向かいのNPO法人勤務の世帯から漏れ聞こえてくる、不燃ごみを仕分けるときの音にも聞こえるのは、やはり絶対音痴のなせる業か。
 そのうちに、昔のみっともないこと──たいていは自分のつまらない見栄や勘違いによる言動なのだが──を思い出して恥ずかしさのあまり頬を掻き毟りたくなり、じっさい掻き毟っても皮膚が痛くなるばかりで、心は収まらないので、いきおい仰向けのまま両の手首を猫耳のごとくコメカミに引き寄せると、手首を激しく痙攣させると同時に、うゎおーおうゎおうゎお、と虚空に吼えてみるのである。
 なぜこのような状況になってしまったのか。
 要するに、自分はいまここに余人を憚る奇態な言動を繰り返すことで、恥ずかしい記憶が脳裏に沁み出でてくることを阻止すると同時に、「まあ、恥ずかしかったが、今よりはましだよな」という新解釈を有意に作出しているのである。
 まことに姑息な解決法ではあるが、どうにもならない過去よりかは、まだ改善の余地があるとみなせる現在の方をば卑屈に貶めるというのは、己を正当化する方法のひとつではあるまいか。負のスパイラルに陥る心配が少しあるけれども。
 そういえば、両親と同居していた高校生のころには、父親の入っている湯殿から「おうおうおう」などとうめき声がときどき漏れてきて、あいつは風呂でいったい何をしているのだろうか、と不審に思っていたのであるが、案外いまの自分と同じような状況だったのかもしれないと思う。何が恥ずかしいというに、その赤面する内容があまりにもみみっちいことが恥ずかしいのである。
 それはさておき。
 季節は初夏である。かつて浮き浮きして過ごした季節であった。
 そうね、初夏と聞けば、なんだかカランとした音の響きが爽快なんであるが、じっさいには曇天高湿度の日々が続く。雨の日も多い。
 雨が降れば、当然のごとく現場は休みになる。県営の小会議室に日雇い集めて安全講習などするような奇篤な会社ではない。取次ぎ場所の軒下で合羽姿で佇んでいても人足を巡回して運ぶマイクロバスが現れる道理はない。そうこうするうちに何らの欲望も満たされぬままに、財布の小銭はじわじわと姿を消しやがるのである。
 畢竟、東側に短く突き出た軒の波板が、ショパンの調べを奏でる朝には、もっぱら寝て過ごすのが得策と知る。すなわち、いまあるわが姿は何はともあれ、あらゆる損益を斟酌したのち、いま手元に残る金子鳥目を保全せんがため、最大限の努力を払った結果なのである。猫耳とて馬鹿にするでない。
 さらには一個の男子なるこの肉体より沸き起こる無体な要求をいかにとやせん。早暁より搾り取りたる子種をば、さらに紙に包んでごみ箱に捨てようとしたのだが、ティッシュの箱も空になったことに気づいて、ならばと箱の割れ目に強引に押し戻したる次第である。
 自分は何をしているのであろうか。
 あほう。生活をしているに決まっておろうが。だれが好きでこんなことするか。
 問う己に毒づき、答える己に嘆息す。
 無数にある不幸のひとつを自分が引き当てたと考えるならば、ただのひと通りしかない幸福というやつよりも、まだバリエーションに恵まれているじゃん。ほら、だって塞翁が馬。人生糾える縄の如し。昔のひとは言いました。縁は異なもの味なもの。
 ──どあほうらめが、と毒づいてみる。なんだか自分の方が偉くなったみたいだ。涙が出そうになる。いやいや、猫耳しながら全身でわななく自分の体内には、もう涙すら残っていないのだ。まあね、あっちの方はまだまだゆとりがあるけれど。相手が人ではないだけのことで。
 そんなふうにして、この日の午前もつつがなく過ごせるはずだったのだ。
 ところがである。
 人生が一様でないのと同様に、天井板のニセ木目も一様ではなかった。
 昔の人、偉いぞ。
 なんで今まで気づかなかったのか。
 このふた月というもの、車軸の雨に咽ぶ朝は、十五は数えたはずである。ため息の数は、その数十倍に及ぶ。なのに、本日だけは、どうも違うらしいのである。
 これぞ音に聞く、縁は異なもの味なもの、じゃなかった、セレンディピティなる代物であるまいか。天井の木目の異変に気づいた自分は、直ちに猫耳を停止して、その一角を凝視したのである。
 ええもう、安物の木目がずれていただけで。あそうね、よくあるズレね、とシカトしておればその先はない。ショパンを聞きながらこきまくる孤独な朝が関の山。よくよく閲するに、この六畳間の南西の隅に、六十センチメートル四方の穴が開いている模様で、それを上から同じ模様の板を被せる格好になっているのだが、それがずれていることが判明した。つまりだね、この天井には穴が開いていて、そこから天井裏に入れるのだ。
 これはいい、と自分は思った。これはいい、これはいい。あ、こりゃこりゃ。
 これを放置する手はない。探索するに如かず。いや私はきっと探索します天井裏を。
 あら踏み台はどこかしら? と独りごちる自分の心は処女の如し。
 なぜとおっしゃるウサギさん、かつて自分は、左のような超短い掌編を何かで読んだことを思い出したからである。

 ******

 まるで通天閣のビリケンさんや。
 引っ越してきたアパートの天井裏で、破顔する大黒像を見つけたときの感想だった。
 このお方をどなたと心得る。案の定、ただ者には非ず。口に何ぞくわえておわす。引き抜けば万札だった。その日から大黒様は毎日笑顔で紙幣を吐き出し続けた。
 1万円の日銭があれば独り身には楽勝。俺は定職ならぬ定バイトを投げ出し、結果、そのつもりはなかったのだが、生活は少しづつ乱れていった。
 依存とはかくも恐ろしい。いつしか俺の欲望を、俺の限界を、大黒さんが定めていた。
 そして夢すらも。
 悩みに悩んでから悩んだ末、俺は大黒を手放すことにした。それはそれまでの自分を捨てる意思表示でもあった。言うな。
 ある意味、自殺だな。
 俺は奴を天井裏に転がした。もとあった場所に戻したのである。壁に当たって割れるかも、というくらい勢いをつけたが、きゃつめは割れることなく、「コイン」などとこの期に及んでなお愚弄するような音を出しただけで、相変わらずむかつくような破顔を維持していた。夢を食う大バク野郎が。お世話になりました。
 俺はもうひとりの自分を鴨居のひもにぶら下げると、翌朝まだきアパートをあとにした。何べんも後ろを振り向いた。
 所持金十七万。色白の三十一歳。家族なし。ほっとけ。
 高く掲げる五体ならびに決意。しまいには後ろ向きに歩いた。
 ほんの少しの後悔。
 あるいは夢の種子。
 そんなことあるかいやさ。まったくもって大ばか野郎である。

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作品名:闇から得た闇 作家名:中川 京人