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120円の恋

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「機械に息を吹き込んだ瞬間、なんだかすっごくすっきりして、素直な気分になれたんです。それで、茅野さんを見て、笑えました。私、ずっと覚えてたので。前に、茅野さんが、その、笑うと……」
「笑うと、かわいい」
「そ、そうです……」
 面と向かっていわれると、やっぱり照れます。
 鵜野森さんは続けた。
 僕は僕で、納得がいった。あのときの笑顔がやたらに魅力的に見えたのは、そういうことだったのかもしれない。
「相手が調子のいいこと言ってるだけだとか、そんなの嘘に決まってるとか、そういうの全部消えちゃって、ただ、素直に笑うことができたんです。でも……」
 鵜野森さんが一歩近づいた。それは僕に話しかけたのか、あるいは自分に言い聞かせたのか、どちらかはわからない。ただ、鵜野森さんは続けた。
 でも、これはなんだか違う気がする。私の一部を切り捨てたままでいるのは違う。それを人に背負わせているのは、もっと違う。「それ」なしで好きな人に向き合っているのは、まちがっていると思うから……。
 肩に、手が届きそうだった。
 僕には腹案があった。いろいろ考えた末の仮説だ。
 もし、呼気を介してこのさびしさが伝わったのならば、同じようにそれを返すことはできるのではないか。ただし、すべてではない。半分くらい、でいい。そのおかげで気づけたことがあったからだ。機械を通じたら、きっとすべてを返してしまう。そのうえ、僕の悲しみ(あるとしてだけど)まで背負わせてしまうのかもしれない。どうせ嘘みたいな事実から始まったことだ。ばかげていても、理屈が通っていればそれでいい。機械でなく、もっと直接的に呼気を返す方法。さびしさを半分に。それを共有して、二人でいればさびしくなくなるような方法。
 それを切り出す勇気が僕にあるとは思わなかった。鵜野森さんが、彼女自身が語るような性格ならば、たとえ同じ方法を思いついたとしても、それを彼女のほうから言える勇気はないはずだ。
 だけど、知ってしまった。言葉ではなく、わかってしまった。鵜野森さんもまた、僕と同じ結論に達したことを。なんの変哲もない住宅街の交差点、あんがいに明るく感じられる街灯の下で、鵜野森さんの真剣な表情を見たとき、すべての疑問や、不安や、期待が溶けて消えた。
 あとに残ったのは、なんだかやわらかくて、あたたかくて、形のないもの。それが、僕の全身をじんわり浸して支配して突き動かし、僕の腕を伸ばさせて、鵜野森さんの肩を掴ませた。
 軽く触れるだけで、すぐに離れた。
 この年まで経験がなかった僕にとっては、初めての行為。
 体が、焼けつくような熱を持った。衝動のままに、僕は鵜野森さんの体を抱きしめた。腕のなかに納めてしまいたい。ずっと一緒にいたい。ただ、それだけだった。
「あ、あの」
 鵜野森さんがくぐもった声で言った。
 愛しいという感情は強い。とても強い。それは感情というより強いもので、だから僕は言った。
「離さない」
「ふ、ふぇ」
 そうやって、じっと鵜野森さんを抱きしめたままでいた。そのままの状態で僕は聞いた。
「どんな感じ?」
 もちろん、結果として鵜野森さんにに返った可能性のあるさびしさのことだ。
 返答は、言葉になっていなかった。うう、とか、うえ、とか呻き声のようなものだけがその口から漏れた。薄着の布を通じて、そのたびごとに僕の皮膚があたたまる。
 ようやく言葉になったときも、やはり要領を得ないものだった。
「わ、わ、わかんないです。わかんないですけど……だめです。死んじゃいます。戻ってきました。恥ずかしいのとか、怖いのとか、全部……戻ってきて、恥ずかしくて、死にそうです」
 僕は、仕事中に何通りも頭を駆け巡った告白の言葉のうち、いちばんシンプルなものしか言えなかった。不思議だ。こうなってもなお、受け入れられなかったらどうしよう、という不安があって、僕の心臓は震えていた。
 あまりにシンプルで、どうしようもない感情。
 好きです、という単純な言葉。
 呟くようにそれを言ってから、鵜野森さんの反応を待った。もう、そのことは疑いようがないくらいなのに、やっぱり僕は怯えているように不安だった。
「もう、わかんないよぉ……」
 鵜野森さんが泣いた。
 僕は鵜野森さんの頭をなでた。僕より10センチくらいだろうか、実はあんまり変わらない身長の鵜野森さんの頭を、抱きしめたままなでると、なんだか不恰好なポーズになった。けれど、泣きやむまで、ずっとそうしていた。
 そうしていたかった。
 許されるのならば、泣きやんだあとも、ずっと。



 翌朝はすっきり目が覚めた。ひどいもので昨日の今日だというのに、もう鵜野森さんに会いたいと思う。学校に行こうとすると、呼び鈴が押された。こんな朝からだれかと思ってドアを開くと、紺色のスーツ姿の男がいた。
「成功報酬をいただきに参りました」
 にこやかな笑顔だった。気味が悪くなった。
 部屋の奥から機械を持ってきて、押し付ける。
「てゆうかこれ、試供品だったんじゃないんですか?」
「はい。試されるのは自由ですが、それによって成果が出た場合はまた別です」
 詐欺っぽい……。
 というより、なぜ成果があったとわかるのだろうか。ハッタリではないのか。
「報酬さえいただければ、以後、あなたたちにいかなる干渉もしないことをお約束いたします。いただけなかった場合、その限りではありません」
 心底気味が悪くなった。なにしろ僕は、あの機械が「本物であることを知っている」のだ。ならば、どんな非合理的なことが可能になっても不思議ではない。
 おそるおそる、僕はその報酬について尋ねた。拍子抜けするような金額を男は言い、僕が硬貨を支払うと、そのまま立ち去った。
 最寄り駅までの道を歩き、改札を通過しようと思って、ふと券売機の初乗り運賃を確認したが、それより安い。120円。意味がわからない。
 大学を終えて、今日は四限までだったので、少し時間は早いが、バイト先へ直行した。すでに休憩所でタバコを吹かしていた大貫先輩が、にやにやと僕に詰め寄る。
「なんなんですか……」
「やー、鵜野森がさー、いい顔で笑うんだよ。なにかあったのかなーと思ってね」
「もう来てるんですか?」
「制服だし、おまえと同じで学校から直行だろ。やー、あれはかわいいぞー。やばいなー。男わらわら寄ってくるんじゃねーかなー」
 最悪だった。絶対にわかって言ってる。
「単位いいんですか。そろそろやばいんじゃないですか?」
「……やなこと言うなおまえ」
 先輩を撃退。
 入れ替わりに、様子を窺っていた鵜野森さんが近づいてきた。
「お、おはようございます。昨日はその……とんだ、ごっ、ご迷惑を!」
「え、いやいや! 迷惑だなんて!」
「私はもう、あのあと家に帰ってから……!」
 ぎゅっと目をつぶった。ついでに顔も覆った。首も振っている。わかりやすいリアクションの博覧会だ。なにかとんでもないことがあったらしい。その様子もかわいい(ものすごくかわいい)が、このままでは仕事にならないレベルだ。僕自身も主に鵜野森さんがかわいすぎる的な意味でまずい。
 気分を紛らすために自販機でコーヒーを買った。
作品名:120円の恋 作家名:dzs