120円の恋
「バイトは……行かないとな……」
シフトは、午後5時からだった。
起きだそうとするが、体がぎしぎしいいそうな気がする。だれでもよかった。だれかがそばにいて、君は一人じゃないと、そう言ってくれさえすれば、少しはましなのに。そう思った。友だちはいる。しかし理由をどう説明したらいいのだろう。いまの気分のまま、無条件にみっともなくすがれる友だちなんていない。
床に投げ出した携帯が光った。のろのろとした手つきで拾い上げる。
鵜野森さんから。
職場でのメールアドレス交換は、推奨されている。病欠などのときに、相互に埋めることができれば便利だからだ。しかし、鵜野森さんからのメールは初めてだ。異様な胸騒ぎを覚えながら、僕は携帯を開いた。
件名。会えませんか。
本文。2時くらいに。駅前の本屋さんの前で。
渡りに船というやつだった。なにより、こんな気分のままで過ごしているのは耐えられない。当事者ならば、話せることもあるかもしれない。僕は起き上がった。体を動かすのは面倒だったけれど、すぐにそうしなければ、鵜野森さんがどこかに消えてしまう気がした。待ち合わせまではまだ2時間もあるのに、僕は顔を洗って、着替えを始めていた。
そして結果としてはこうなる。
僕は約束の時間の1時間も前に、駅前の本屋の前にいた。本屋の前には、雑誌を雨から守るためだろうか、広い庇があって、雨の日の待ち合わせにはうってつけだった。
ぼんやりと行き交う人々を眺める。灰色の視界のなか、人々はみな一人で歩いていた。ああした人たちにも、家には待つ人がいるのかもしれない。あるいは、いないのかもしれない。そうした無限の人々のつらなりが家を作り、町を作り……もっと大きなつながりを作るのかもしれない。そして、それらの人たちのだれ一人として、自分には興味を持たない。
あたりまえの話だったし、ふだんならこんなことは考えない。
心が、傷んでいる。蝕まれている。そんな表現がしっくり来た。それを修復するものがあるとするなら、それは原因となっている鵜野森さんのはずだ。そんなばかげた思考が頭を支配して、振り払うのに苦労する。
冷静に。冷静に。僕はこれから入り組んだ、信じられないようなことを説明しなければならない。時間を確認する。1時半。約束の時間まであと30分。すでに、こんな時間に待ち合わせ場所にいること自体が冷静ではない。それを自覚できる限りは大丈夫。わけのわからない弁明を自分に対して施しながら、視線を上げた。定期的に庇からこぼれ落ちる雨だれの向こう、透明のビニール傘を差して、とぼとぼと一定の歩調で歩く人の姿が見える。制服姿で、姿勢はちょっと猫背で、その人は、やがて僕を見つけた。
傘を開いた。やめろ、と警告の声が自分のなかに響く。雨のなかに飛び出した。衝動だった。後先のことなんて考えられない。理性が遠のく。衝動のまま振舞ったらどうなるかなんてわかりきっているのに、そうしたい、という衝動に勝てない。僕は鵜野森さんに駆け寄った。僕に気づいてほほえんだその顔を見たときに、最後の一線が壊れた。
傘を放り出した僕は、鵜野森さんを抱きしめていた。
「え、ええっ!?」
「ごめん」
なにに対してかわからないが、僕は謝罪した。
雨が直接に僕を打った。
「か、かかかか茅野さん!?」
きっと鵜野森さんも濡れているのだろう。そういえば、鵜野森さんの驚いたような声なんて、聞いたことがあっただろうか。そんな声をもっと聞きたい。僕は病的な気分だ。あの機械のせいだ。あれが。自分の衝動を正当化する理由として僕はいろんなものを持ちだした。雨だから。あの機械が悪いから。鵜野森さんが笑ったから。僕はさびしいから。なにしろ僕はいまおかしいのだから。
抱きしめることで接触している面から、僕の心を修復するなにかが流れこんでくる気がする。
「か、茅野さん、その」
「ごめん、もうちょっとだけ」
「そうじゃなくて……苦しい……です……」
本当に苦しそうな声。
我に返った、というのはこういうことを言うのだろうか。
腕に力が入っている。
置き去りにしていたはずの理性が、急速に戻ってきた。
音が、消えていた気がする。塞いだ耳を開放したときのように、新鮮な感じで、電車の音や車の水切り音、そして雑踏が戻ってきた。同時に、四方八方からの好奇の視線が突き刺さった。
「ご、ご、ごめん!」
僕は飛び退くように鵜野森さんから離れた。
鵜野森さんが、顔を赤くして僕を睨んでいた。睨む、というのとは少し違うかもしれないが、そのときの僕にはそうとしか思えなかった。
「ほんとごめん! なんていっていいかわかんないけどごめん!」
「それは、いいんですけど……と、とにかく……」
鵜野森さんが周囲を視線の動きで見回した。僕は血の気が引いてきた。
「移動……しよう」
僕は鵜野森さんの背を押した。
駅の反対側にある喫茶店を選んだ。さっき僕たちを目撃した人がいる可能性が少しでも少なそうな場所だ。そこで、謝罪第二ラウンドを開始した。そろそろ土下座でも始めようかという段階になって、鵜野森さんが強めに、
「かえって気にしちゃいますから、もういいです」
と言って、ようやく僕は冷静になった。
「でも……なんか、いやだったろ、あんなとつぜんに」
「いやとかじゃなくて……ただ、びっくりしました」
鵜野森さんの髪も濡れている。あたりまえだ。抱きしめたときに、傘が飛んでしまった。また謝りたい気分になるが、そこはぐっとこらえる。同じことの繰り返しになってしまう。
コーヒーが運ばれてきて、会話はいったん途切れた。
僕はブレンド、鵜野森さんはクリームソーダを註文。喫茶店なのにごめんなさい。コーヒーって苦手なんです、と妙なところで恐縮する鵜野森さん。ひとしきり飲んでから、鵜野森さんが切り出した。
「それであの、お呼びした理由なんですけど……」
要件はシンプルだった。あのパックをまだ持っているか。持っているなら返してほしい。それだけだった。
ああ。
どこからどう切り出したらいいんだろう。僕は、それでもまだ冷静になったつもりではいるけれど、あんなことをしでかしたあとなのだ。冷静なつもりで煮えているかもしれない。しかし考えこんでいても、どうにもならない。とりあえず僕は切り出した。
「えーと、いまから話すことは妄想だから。ばかげてるって思ったら無視してくれてかまわない。昨日、鵜野森さんは、あの機械に息を吹き込んだ。まさかとは思ったけど、なんだか悲しい気分が抜けていくような気がした。そんなことは起こるはずがないけれど、現実にそうなっている。ひょっとしたら、あの機械は本物だったんじゃないか。だとするなら……」
鵜野森さんが目を丸くして驚いていた。どれほど驚いているかというと、ストローを持った手がそのままで固まっているくらいだ。
「そう、なんですけど……なぜそれを……」
「理由は簡単。僕がそれを開封してしまったから」
「す、吸ったんですか……?」
「吸ってない! 吸ってません!」
どう話しても言い訳がましくなる昨日の顛末を僕は話した。