120円の恋
「鵜野森由来の二酸化炭素入りだ。どう使うかはおまえに任せる」
「ちょ、先輩?」
「吸ってよし、電子レンジであたためてよし、好きに使うといいぜ」
「変態じゃないですか! う、鵜野森さんだってそんなのいやだよね?」
「……吸いたいんですか?」
真顔で聞かれた。
「そんなわけないでしょ! ただほら、自分の吐いた空気を見知らぬ男が持ってるとかね、そういうのね」
僕の弁明もたいがいおかしい。
「見知らぬ人じゃないです。別ににんにくとか食べてないから平気ですよ?」
「いやあの、そうじゃなくて、その……あれ?」
気がつくと先輩がいない。いつのまにかバックヤードの中心にいて、点呼行くぞーなんて大声をあげていた。
「……」
あとには、鵜野森さんと僕が取り残された。パックを持って途方に暮れている僕。
「別に、持っててもしかたないですよね」
おかしそうに鵜野森さんが笑う。あれ。こんな笑いかたする子だったっけ。その笑顔に血圧が上がりそうになった僕は、決定的におかしいリアクションをした。
「いやもらう。もらいます!」
「はぁ、別にいいですけど……」
ちょっと不思議そうに首を傾げながら、点呼のためにその場を離れた。
「これは……」
うん。
これは、あれだね。世に言う……ドン引かれましたね。はい。
もうだめだ……。足を引きずるような気分で、僕も点呼に参加した。
ちーん。
仏壇の鐘でも鳴らすような音が頭のなかで響く。
結局僕は「それ」を家まで持ち帰ってしまったのだった……。
6畳一間のアパート、一人用の小さなこたつの上に、ビニールのパックと、帰りがけにコンビニで買ってきた缶チューハイ。それと職場であるスーパーで買ってきた半額のお惣菜。テレビではナイター中継。立派なおっさんの完成だが、これでも僕は大学生だ。まだ21歳だ。
「って、これじゃ鵜野森さんの息をつまみに酒飲むみたいじゃないか!」
そんなことは断じてしない。
しないのだが、なんとなくどきどきはする。酒も飲める年齢になっておきながら、小学生男子みたいなことを言っているが、肉体に直接由来するものというのは、どこかしら背徳感が張り付いている。
職場のスーパーの惣菜は、特に餃子がうまい。で、僕はそれをつつきながら、鵜野森さんのことを考えた。
バイト先に入ってきたのは半年くらい前で、僕よりわずかに後輩だ。ずいぶんと細身で頼りない雰囲気で、実際の身長よりやや小柄に見えるのは、猫背気味なせいだろうか。
見た目と反して、仕事ぶりにはずいぶん頼り甲斐があった。あまりの重量物は男が運ぶが、それ以外の部分で動きが的確で速い。頭の回転のよさを感じさせた。
最初に指導担当になったのは僕で、そのせいで接する機会が多かった。どちらかというと無愛想なタイプで、どう扱っていいかわからなかったが、あるとき、不意に笑った。その笑顔があまりに……なんといったらいいんろう、純粋に笑顔だったせいで、僕はそれからも、鵜野森さんを笑わせることに一種のやりがいを感じるようになってしまった。
つまり、気に入っている。
いっそ、好きといってもいいかもしれない。
ここにこのパックがあるから気になるので、それなら開封してしまえばいい。家に帰ってからようやくそのことに気づいたわけだが、それもまたなんとなくもったいない気がする。
「これは大きい、しかし際どい、切れるか、切れるか、入ったーーーー」
テレビが大声を上げた。「もったいない」というやや病的な思考に入っていた僕は、現実に引き戻された。テレビを見ると、またベイスターズがホームランを打たれていた。土地柄のせいもあって、親子二代のベイスターズファンだ。がっくりと来た。これが現実だ。脈絡もなくそう思った。もういい。メシを食ってシャワーを浴びて寝よう。いつもどおりの生活をしよう。一限のみという腹立たしい時間割を乗り切るんだ。。
得てして、対応というのは後手に回るものだ。「もったいない」で物事を保留して、それであとあと役に立つ機会なんてそうはない。亡くなった祖母の遺品整理で、家族一同、そのことを痛感したはずだ。
後悔先に立たず。使い古されたこのことわざの意味を、僕はその後、いやというほど思い知ることになったのだった。
眠りは浅かった。炊飯器めいた例の機械(わざわざ持ち帰った)に加えて、今日は例のパックが異様な存在感を主張していたためかもしれない。それとも、寝つくために予定以上の缶チューハイを飲んでしまったせいか。
深夜に目が覚めて、トイレに行った。わざわざ電気をつけることもしない。用を済ませて、手探りでベッドに戻ろうとしたときだった。
足がなにかを踏んだ。やばい、と思ったときにはもう遅かった。ぱん、と小気味いい音がした。踏んだのがあのパックだったのか、ということは、足にまとわりつくビニールの感触でわかった。
わかったときには、もう異変は始まっていた。
「な、なんだよこれ……」
自分がどうなっているのかわからない。肉体の反応ならわかった。涙が流れている。なんでだ、と思いながら目を拭って気がつく。さびしい。いまここに、自分以外のだれもいないことが、病的にさびしい。感情の大波が理性を浚っていって、いても立ってもいられなくなりそうだ。
「まさかあの機械、ほんとに……」
それは……そう、納得の行かない失恋をついに受け入れる直前の気分にも似ていた。どこにも自分の行き場なんてない。受け入れてくれる人はいない。客観性や冷静さを失って、自分だけの感情に溺れこむあの感じ。
愛するペットを失った人のような気分でベッドに逃げ込んだ。体を抱えるようにして寝た。とうてい冷静とはいえない気分のなかで、それでも僕は考えた。こんなのはおかしい。異常すぎる。
まさかとは思うが。
いや、本当にそんなことがありうるのだろうか。
もしあの機械が「ほんもの」だったとしたら、あのパックには悲しみが詰まっていなければならない。そして僕は、それを踏んで破裂させた。その結果がこれだとしたら。
機械を信じる、という一点がばかげているが、それ以外については合理的な説明に思えた。
だとしたら、この悲しみは鵜野森さんのそれ、ということになる。
「嘘、だろ……」
呻くように僕は思った。
こんなのは、無理だ。人はこんな感情のなかで、冷静に振る舞うことができるとは思えない。鵜野森さんは確かに寡黙で幸薄そうな顔はしている。しかし、こんな感情を抱えたままで日常生活を送っているようには見えない。
体のどこかをつついたら、そのままそこから自分がほどけてしまいそうなさびしさのなかで、僕はあがいた。
翌朝。目が覚めたら午後12時だった。一限はすでに終わっている。携帯には、心配した友だちからのメールが何件か。僕は携帯を床に放り投げて、大の字になった。逆さに見える窓の向こうでは、雨の気配がする。
痙攣的というほどではないが、感情はまだ持続していた。
まず、眠れた、ということに驚いた。肉体はなかなかに優秀だ。人の気分とは無関係に、人間を生かそうとする。
憂鬱だった。雨が世界の終わりまで降り続いて、この部屋を沈めそうな気がしてくる。