雪は穢れて
すると、無意識に、寒さの所為か、恐怖心からかは彼女には判らないが、震えていた事に気づき、震えが収まっていることにも気づく。
そして、悪夢に苛まれていたのだと漸く悟った。それを起こしてくれたのだろう、抹茶は。
狼は笑いたいけれど笑いを堪えて、凛々しい顔を歪める。
「馬鹿。普通、恐いって言ってる単語で起こすかよ」
「でも、起きたです。水、浴びる、起きないです」
そう言われてから自分のベッドが水浸しなのに気づき、この部屋の掃除担当者はとてつもなく苦労させられるのだろうと苦笑した。
もう攻撃する意志はないということを示すため、ナイフを全部、先ほど抹茶が居た場所へ投げ刺す。剣は、流石に譲れないので、隣に置いた。
「これでいいだろう? お前、僕の攻撃交わすなんて本当は強いんじゃないのか?」
「ナイフが遅いだけです」
この憎たらしい口を、ナイフを全部向こうへ投げてなかったら、裂けることが出来たのに。狼は早くも後悔した。そうだ、起こしてくれたとはいえ、抹茶はこういう奴だ。
抹茶はにやけているのだろうと思いながら、うんざりと視線を向けた。だが、抹茶は少し何かに苛立っているような顔をして、瞳を此方に向けていた。
……ぐらりとする感覚。それでいて、自分の体が自分の物ではなくなる感覚。気づいたのが遅く、魅了技にかかっていた。
狼は多少は免疫をつけてきたつもりだ。魅了技を使わない敵がいなかったわけではない。だがしかし、庵でも敵わなかった魅了技に、庵よりも免疫のない狼が勝てるわけがない。
ただ、自分が何をしているかは判り、行動は別の行動を取っていた。
まるで幽体離脱したような感覚だ。こういうのをそう言うのだろう、と狼は溜息をつきたかったが、体は人形のように大人しく抹茶の言葉を待っていた。
魅了技にかかると一つ発見出来たことがある。抹茶の獣人語が判るのだ。
「人間の言葉は巧く使えなくて苛々するから、こうさせてもらう。何もしねぇから、安心しろよ?」
(お前、やっぱり口が悪かったんだな)
「テメェ、何で暗殺者になったんだ? 兎殺すくらいで怯えるんならならなきゃいいのに」
「……僕は最初から暗殺者として生まれるべくして生まれた。師匠は自分の跡継ぎを作るために僕を産み育てた。暗殺者にならなければ殺される。やめたくてももうやめられない。名は知れてる。今更血は拭えない」
(馬鹿。言うな、僕)
狼は自分の頬を引っぱたきたかった。抹茶の頬も。何故そんなことを聞くのか理解できず、ただ過去を暴露された気分で、気持ちいい状況ではない。
抹茶はそんな狼に構うことなく質問を続ける。
「……辛かった?」
「別に。ただ、最初の殺しは誰でも恐い物だと思っている」
(黙れ。黙れ!!)
狼の目が抵抗を持ち始め、少し抹茶を睨み付けるような目つきになっている。
抹茶は、余程話したくないことだと知ると、ふぅんと面白いオモチャを見つけたような嬉しそうなにやけた顔をする。
「血の鎖から解き放たれたい?」
「解き放たれたら、何もやることがない。保護軍なんてうんざりだ」
「真雪は?」
「判らない。あれさえ居なければ……保護軍なんてなかったが、庵や千鶴とは今みたいに話せなかった」
「あれあれ、ろーくんってばお友達が欲しいの?」
(殺す!!!)
狼の手がゆるゆると剣の方向へ向かう。
それを楽しそうに見遣り、手が剣の方へ辿り着くと抹茶は魅了技を抵抗できる程度に解き、言葉だけを通じさせる。とはいえ、まだ技にかかっているのだから、動きは鈍い。
それでも狼は剣を掴むなり、すぐさま抹茶へ斬りかかる。
「貴様ぁあああああああ!!」
「きゃーっ、ろーくん、こっわーい」
「煩いわ、このカマトト! お前、何のつもりだ!?」
「……だって、こうでもしなきゃ話せなくなるでしょう。こうしたら、話せる理由が出来たわけだ」
「は?」
狼は動きを止めて、片眉を吊り上げる。からかうためと言うだろうと思っていた狼は、肩すかしを食らった気分だ。
抹茶は、王女に向けるぶりっこの笑みを、狼に向けて、ベッドへ座る。否、横になって寛ぐ。
「ろーくん、自分のこと話すタイプじゃねぇから。これで、強制的に聞いてもいいことになっただろ?」
「……抹茶」
「今も魅了技にかかっている。いざとなったら、話したのは魅了技にかかった所為だったと言い訳できるんだぜ? 逃げ道を作ってやったんだよ」
「……余計なことを。僕は別に」
「平気だとかは、言わせねぇよ。平気なろーくんだったら、オレに謝るなんて無様なことはしねぇはずだ」
聞けば寝てる間に野良に怯え、抹茶に謝っていたという。
話を、状況を聞けば聞くほど、頭を抱えたくなってくる。先ほどの自分の言葉に対しても。魅了技にかかっている者は、大抵本音を言う。自分でも気づかない、心の奥底の本音を。
「……それで。庵は無事だったのか?」
「部屋に戻る前に他の奴も見張りにいれろって言ったけど、通じたか分かんないし、人間の交尾なんて時間がどのくらいかかるか分かんねぇよ」
「下品な奴だな。そう言う言葉はもうちょっと隠して言う物だ」
「オレ、獣だからいいの。で、ろーくん、今度はそっちが話す番だ。何なら、もう一度強い魅了技使おうか?」
にやにやとして狼を見上げる。と、同時に頬を剣先がかすり、ベッドへ刺さった。
狼は、怒気を孕んだ笑いを浮かべ、抹茶へ顔を近づける。顔の距離がかなり狭まったので、抹茶は少しだけどきりとした。
(闇に映える雌。流石、血塗れ雌だ――)
貶し言葉のつもりではなく、褒め言葉だった。抹茶にとっては。でもこの場には相応しい言葉ではないので、ただ黙り彼女を見つめる。
すると、彼女が抹茶の唇に噛みついた。抹茶は突然のことに驚き、後ろへ飛び後ずさる。
そんな様子を見て、漸く満足したのか狼は活発な笑い声をたてる。
「漸くお前が動揺する姿が見えて、お前の弱点が判ったよ」
「な、何するんだよ!!」
「何って噛んだだけだ。お前だって、前にしただろう? 今更。それとも僕がすると拙い理由があるのか?」
「……ッねぇけどよ、何で……」
「何、ただの確認だ。お前はどんな人間でも利用する、どんな動物でも利用する外道だというのに、わざわざ僕に逃げ道を作ってまで、僕を救おうとする。猫を被ったままでも接することは出来たはずなのに、獣人語を理解させる。そういう特別扱いする理由が判らなくてね、試してみたのさ。お前の弱点は、僕だね?」
抹茶は、それを自覚しているからこそ、狼へ怒鳴る。笑ってるときか、と。
そう怒鳴られても、何ら恐くない狼。自分が弱点ならば、自分にとって悪い方向には動かないだろう。そういう自信を、持ち始めた。
たちの悪さは、抹茶と張れるだろう。狼はふんと鼻を鳴らして、先ほどの仕返しだとふんぞり返る。
「余計なことまで聞いただろ。逃げ道だけならともかく」
「……好奇心」
「殺すよ。僕の本音を知って良いのは、僕だけだ。聞いたからには、……話してやるよ」
狼は諦めの悪い顔をしながら、溜息をついて、ベッドに腰掛けた。