雪は穢れて
「……今更」
言葉ではそう言いつつも、狼は、抹茶が本気でこの軍に取り組むわけが無いと思っていたのだ。ただ、彼の、好奇心だけが頼りで。それなのに、何が彼を、今本気にさせたのだろう?
王女と何か、あったのだろうか?
「……抹茶?」
訝しげに呼ぶ彼女。抹茶は、偽りの笑みではなく、優しくはにかんだ顔で、部屋に帰ろう、と口にした。
……本当に、何があったのだろうか?
「ろーくん」
「何だ?」
「自分の血に塗れンなよ、馬鹿女」
「……? だから、僕は獣人語が判らないと言っているだろうが」
「ろーくんだけ、勉強しないです」
「判らないままでいろってか。何だ、聞かれちゃ拙い取引でも、誰かと獣人語でしてるのか?」
「のらくんとの会話、聞きたい?」
それまで半笑いだった狼は、げっそりとした顔をして、ぴょこぴょこと横を歩く抹茶をそのままに部屋に戻った。
その夜だった、抹茶が野良に怒鳴り込んでいったのは。
*
「何で、私の監視が貴方なのかしら? 野良」
「さぁ、僕も命ぜられただけだからなぁー?」
「じゃあ、もう一つ聞いて良いかしら……」
「何?」
「一体……何のつもり? この体勢?」
壁に追いつめられ、庵は銀の錫杖を野良の喉元に向けている。それでも、体勢が今にも密着しそうで迫られているのは変わらないし、ついでに言えば、力業は効かないだろう。魔法も使えると聞いた。国では認められなくても、自力で学んだのだろうきっと。
庵には思い人が居ると聞けば、それなら口説くのは容易くない。既成事実を作れば、副将は取り乱し、狼も冷静でいられなく、そして庵も警戒しすぎて大事な点を見れなくなるだろう。そう思って、野良は庵に迫った。
耳元で、甘く低く囁く。この声で、幾人もの女性は恋に落ちた。
「もうそんなのの意味が判らない年でもないデショ?」
女性であれば、腰が抜けそうな艶のある声。それは庵も例外ではなく、ただ耳元を押さえて、顔を真っ赤にしながら、野良を睨む。
「私は、無様な真似を見せたくないわ。あの方の期待に応えたいの」
「それは、コヨーテにだけ? 副将の期待にも、デショ?」
「それの何が悪いのよ」
もう皆にはばれている。それでも鈍い千鶴は、まさかぁとか笑っているような気がするが。それならば、開き直った方が得策なのだ。
髪の毛を掻き上げて耳元にかけてから、喉へ向ける錫杖の力を強める。
「これ以上触ってくるなら、攻撃するわよ」
「この距離じゃ君も傷を負うんじゃ? 悲しむ人が、どれくらい出てくるかな? 次の魔法の対策候補は、誰が名乗り出るかな」
判っている。今の地位から降りたら、狼の立場が悪くなるくらい。そして、次に千鶴が狙われるくらい。それか、自分に何かしたと言って感情を揺さぶり、問題を起こさせて、千鶴を副将から下ろすか。いずれにせよ、相手の挑発にも、この駆け引きにも乗ってはいけない。
誰か、来てくれ、庵は心の奥底でうっすらと感じる恐怖を覚えながら、そう願ったとき、扉が破裂したのかと思うくらいの勢いで開いた。
千鶴じゃなくて良かった、と思う。でも、ある意味拙い人物だ。
――抹茶。
抹茶は、二人が密着しているのも気にしないで、ずかずかと部屋へ入ってきて、野良の喉元にあてている庵の錫杖を掴み、より喉へ押しつける。
庵は抹茶の様子を、よく観察する。耳がいつもだったら、ひくひくとしているはず。ぴーんと、たっていて、よく聞けば、きゅうきゅうと鳴いている。動物の声で。そして、何より、笑顔が売りの抹茶が、捕らえ所のない筈の抹茶が、冷徹な顔で野良を睨み付け、明らかに威嚇しているのだ。
獣人語で会話をしだす、二人。獣人語を習得していて、良かった、と庵は密かに思った。
「テメェ、ろーくんに何した!?」
「何って、何? コヨーテがどうした?」
「アルテミスが恐い、って泣きながら寝て居るんだよ! 何でか知らないけど、オレに泣きながら謝って寝て居るんだよ! 魘されて居るんだよ! それなのに、起きないんだ!」
その言葉に、庵は一瞬混乱しかけた。其れもそのはず、言ってる当人でさえも、混乱しながら言っているのだから。
あの強がりで意地っ張りな狼が、泣いている? それも抹茶に、謝っている?
震える手に力を込め、益々錫杖に力を込めて、庵は野良を睨み付けて、殺す勢いで喉を圧迫した。
「お退き!」
有無を言わさない、そしてこの様子では抹茶は庵を助けそうだから、このままでは自分が不利なだけだろうと野良は判断して、後ろに足を引いた。
そして、少し咽せながら、何かを思い出そうとする。少し経った後、また抹茶が行動に移そうとしたとき、嗚呼、と野良は頬笑んで納得した。
「心当たりがあるのね?!」
庵は怒鳴り、錫杖を向ける。問いかけは、後は抹茶に任せて自分は被害も考えないで最上級の魔法呪文を唱える。いつでも、仕掛けられるように。
野良は、苦笑してから、抹茶を見遣る。
「君を見て、僕を見て、思い出したんだろ」
「……? 何を?」
「君は、狼がどうして暗殺者だか、知ってる? 彼女は、生まれる前から暗殺者として育つことが決まっていたんだよ」
「……――?」
「ねぇ、知ってる? コヨーテと関わった人物は、皆、皆、死んでいくんだよ……? 僕は自分が暗殺者になることで、防いでるけどね。呪詛返しだって覚えたし、健康診断は欠かしていない」
「…………? それが、あの馬鹿が泣いてるのとどう関係するんだよ!」
「……僕が知っているのは、コヨーテが暗殺者として認められるために最初に殺したのは、僕の飼っていた茶色の兎と、彼女の生い立ちくらいだ」
「……ッ兎……?!」
目を見開き、びくりとする抹茶を見て、野良は此方を見ているようで此方を見ていない笑みを向けて、嘲笑う。
「馬鹿だよね。侵入して僕に見つかったら殺される、そういう試練だったから僕は彼女が殺すところを見ても『笑って』許してあげたのに、黙ってあげたのに。コヨーテは根がいい人だから……兎を見ると、それを思い出すんじゃない? 僕が来る日は、大抵僕が恐いと震えて眠りにつく。おっと、怒らないでよ? 起こしても起きないくらい、なんでしょ? 彼女は深い眠りにつくことはあまりない。つまり、僕が居ることで深い眠りに漸くつけるってことだ。数年に数回だよ。喜んであげなよ?」
抹茶は注意深く野良を睨み付ける。顔だけを睨んでいるのに、その下……体の動きまで目に入ってるようで、何か動作を少しでもすれば、いつでも反応できるような体勢を。
庵はまだ詠唱をしている、それでも野良を睨み付けている。親の仇のように。
「……ろーくんの生い立ちって……?」
「……そんなのは、本人に聞けば? 他人が言うようなことじゃないでしょ? でも、深く眠れて居るんだから、起こすのは……それに、彼女が起きようとしなければ…」
「悪夢に苛まれている馬鹿を、誰が放っておけると思う!?」
激高する抹茶を見遣ると、野良は上唇を舐めて、挑発的な視線を向ける。
その瞳に、鋭敏さは隠さずに。