雪は穢れて
庵は冷や汗をかきながら、笑みを取り繕った。此処には自分以外居なくなってしまった。そして何より、こんな異質な気配に此処へ近づかれるまで気づかないなんて。それほどの力の持ち主。
(……まだ、死ぬわけにはいかないのよ)
びゅおおと風で窓ががたがたといっている。此処の窓は少し古いので、少しの風でもがたりと鳴る。だが、この音の鳴り方は、尋常でないし、タイミングが良すぎる。悪い意味で。
庵は錫杖を構えて、慎重に窓をあけた。
窓を開けると、暗雲が立ちこめていた、城の上だけに。
不吉な前兆ね、何か最悪のことが起こる条件は揃ってるじゃない、なんて考えながら、外から気にすればひしひしと感ぜられる気配に、庵は睨み付ける。
“それ”は、漸く返事をした。
「誰か霊能者を呼んだ方がいいのではないか?」
「大丈夫、姿は見えなくても声は耳に出来てよ」
「……だが、震えている」
そう言われ、ふと錫杖を持っている自分の手を見遣る。僅かに震えているが、この霊圧を感じれば、どんな魔法使いでもそれは普通の反応だろう、と判断し、心配有難う、と何処へとなく微笑みかけてみる。
「……こうして笑う余裕はあるのだから、安心なさって?」
「承知した。それならば、用件だけ言おう。今の作戦はやめさせろ。残酷だ。これは脅しではない、道徳を説いている」
“それ”が言ってる言葉は簡易に理解はし難くて、言われていきなりはいそうですねと頷けるものではない。だから、庵は代わりに何故と素直に疑問を口にした。
「彼は冒険者よ、魔王に挑むことは今回とは別に無いとは言い切れないじゃない。作戦をやめても、彼らは動くかもしれないわよ? それでも、止める?」
「その問題は、別の魔物を魔王に仕立てるだろう、“彼ら”も」
「……“彼ら”……ですって?」
個人ではなく、団体を示し、尚かつ真雪を特別扱いしているのは幽霊だけではないことに庵は気づくと、その特別扱いをしている者を考え、導き出す。
その思考回路は早くて、流石は魔法使いといったところだろうか。
そしてそれに気づくなり、すぐに“それ”は消えていて、その気配が無いのだと判るとすぐに庵は千鶴の元へ知らせに行こうとした。
部屋を出るなり、歩いていた人にぶつかる。否、歩いていたわけではない、足音はしなかったはず、と庵は嫌な予感を走らせながら、相手を睨み付け、少し離れる。
……銀色の綺麗なさらさらの髪の毛に、穏やかな紫の瞳。顔つきはちょっと女性のようだった。背丈は丁度、千鶴と同じくらいというかんじか。どちらにせよ、自分より背丈は上だ。
服装は、網シャツに、腕までを覆う手袋のようなもの。自身を縛るような紐の連鎖。その下は、少し広がって、形がしゃんとしている「上半身のない」コート。腰から下にベルトでつけましたという感じで。そのコートから覗くのは、短いズボンの綺麗な足。肉の引き締まり具合から見ると、男なのか、と思った。
そして、庵は直感を働かせる。抹茶風に言うと、匂いを嗅ぎ分けている。
(この雰囲気……狼様に似ている。……あの方は兄弟とか居るとか訊いたことはないけれど、親戚とかそういうわけではなさそう)
そうなると、この全然狼とは違う空気なのに、何処か異質な空気の同じさは何なのだろう、と庵は睨み続けた。
それに、銀髪の青年は吹き出し、けらけらと笑う。
「ぶつかったのに、謝ったりしないのー?」
「ぶつかってほしかった方に謝礼するほど、お人好しじゃないのよ」
そういって、錫杖を構えて、いつでも戦える準備をする。脳内に様々な攻撃魔法の候補を挙げておいて。
青年は、見抜かれてることに気づくと、苦笑を浮かべて――否、苦笑と言うにはあまりにも切ないような、儚いような笑みだ――、すっと手を前に出した。
「……何よ」
「握手。此処が真雪保護軍、本部でしょー?」
その存在は、常人は知らない筈で。知っていて、尚かつ本部の場所を知っているという事は、……。
「これから、宜しくお願い致します、魔法対策部部隊長殿。僕は、陛下直々に命ぜられた魔物と物理攻撃対策部を兼任します、野良(のら)です」
そういうことなのだ。まさか、二つの部隊を兼任する者が出てきたのは意外だったが。
野良は、握手をしてくれる様子がないと判ると手を下げ一礼して敬礼を。そして一線を引いた笑みを浮かべ、人差し指を庵の前に持って行く。
「そんでもって、霊能力もちょいとばかしあるんだよねぇ?」
「……野良隊長、今の会話、聞いていたの?」
「うん、まぁね? でさ、誰かに報告しようとしていたみたいだけどさ、魔物対策部部隊長の僕に言えばいい話だと思わない?」
確かにそれは道理だ。わざわざ副将に直接言いに行くこともない。だが、こんな得体の知れない、それも嫌な予感のする男よりかは、自分が信じていて、その意見が聞きたい副将の千鶴の意見が聞きたかった。
庵は、溜息をつきながら、狼のする鋭い視線を真似て、睨み付けてみる。
「聞いていたのなら、私と話すことなんてないでしょう?」
「そうだねぇ……じゃあさ、副将に言いに行くついでに、大将に一言言って置いてくれないかな」
「……何を?」
庵はその場から去ろうとしながら、背は見せず、後ろ歩きで千鶴の居ると思われる方角へ足を向ける。
それを見遣り、男はくすくすと笑いながら、異質の空気を隠そうとはせずに、庵を睨んだ。睨みながら、笑っている。
その鋭さが、自分の知っている人物と同じ鋭さであり、体が震えたが、気のせいにした。
「誰かに蹴落とされないようにねって。その地位。今度負けたら、体全部持ってくから」
その言葉は大胆不敵な、犯行予告のようで。
地位の略奪を、わざわざ宣言しろと言っているのだ。
陛下直々、ということは狼は彼の存在を知ってるわけではないという事だ。
だが、恐らくは知人。それも――……。
(何故似ているか、判った。この人も、この人も、暗殺者なんだわ)
*
何とかパーティメンバーに加わることが出来た狼は、翌日には出立するから、と言われ、それなら準備するから明日待ち合わせをしようと提案した。
本当は準備なんてしてあるが、最後の確認と打ち合わせだ。
喧嘩で少しぼろぼろに見せた身で、城に誰にもつけられないように帰る。
そして、城に着くなり、兎を手元から手放し、「何処かへ行け」と命じたが、兎は獣人の姿に変わるなり、何処かへ行こうとはせず、ただ狼に甘えるように抱きつこうとしたが、狼は片手でぐぐっと抵抗する。
「お前、僕は疲れて苛々しているんだぞ!」
「兎は癒し系です」
「お前はどっちかっていうと、卑しい系だ!」
「卑しい事するです?」
「僕には一切関わらないところで、迷惑がかからず、軍の存在がばれない程度になら」
ぎゃあぎゃあと騒がしい二人。その二人の声が聞こえるなり、千鶴がやって来て、抹茶を引きはがしてから、大成功ですと目を爛々とさせていた。
抹茶を引きはがしてくれたことに礼を言い、それから、ぼろぼろの身なりを整えたいし、手当もうけたいので、救護室へと向かいながら、千鶴の報告を耳にする。千鶴も抹茶もついていく。