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尖塔のみえる町で

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と私が言うと、Kもまねして河の水をすくった。そしていきなり指先に残った冷たい水を私の胸元にはじき飛ばした。私が思わず悲鳴をあげると、彼は悪戯好きの少年のように声をたてて笑った。私も負けずに河の水を彼に浴びせようとすると、彼はすばやくMの陰に隠れようとしたので、小さな舟は大きく左右に揺れ、バランスを失ったユージは危うく河に転落しそうになった。
 私たちのパントは大騒ぎになったが、このすばらしい夏の陽気に浮かれているのはみな同じで、河のあっちでもこっちでも、悲鳴やら笑い声やら笑いを含んだ怒声やらが飛び交っているのだった。
 私たちのパントは「あんたたち、これ以上ふざけると河に放り込むわよ」というMのきついひと言で平静を取り戻したが、別の騒ぎがすぐにまた私を襲った。緑地とコレッジの庭を結ぶ小さな石橋をくぐるとき、ユージは向こうからやってきたパントをよけようとして竿さばきを誤り、私たちの乗ったパントの舳先が岸に勢いよく衝突した。その瞬間、Kはパントの揺れに乗じて私の小さな身体に覆い被さるようなかっこうで倒れ込んできたのだ。
 私は反射的に彼の胸を両手で押しやった。彼がわざと私の身体に触れてきたのは明らかだったが、私が怒ったと思ったのか、彼は何度もソーリーとくり返した。私はなんだか気まずい思いでうつむいていたが、彼のがっしりとした硬い身体の感触を反芻して心臓が高鳴るのを必死に鎮めようとした。
「おれの運転は荒っぽいから気をつけてくれよ」
 雰囲気を変えようとしてか、ユージが明るい声で言うと、Mがそれを引き取って「これくらいのスリルがあったほうが楽しいわよ」と笑った。そしてKに向かって、
「どうせ倒れ込むなら唇を奪うくらい派手にやんなきゃ」と言って、彼の肩をたたいたのだった。
 そのちょっとしたハプニングのあと、私はKとは距離を置くように努めた。ディナーのときも彼には話しかけず、逆に話しかけられても当たり障りのない短い返答ですませた。
 私は怒っているわけではなかった。ただ、彼が私の内面に触れようとしているのではなくて、単に肉体だけを求めようとしているのではないかという疑いの気持ちを直感として抱いてしまったからだった。
 彼の眼には明らかに戸惑いの色が浮かんでいた。私は意識的に彼を視界からはずした。彼はまだうぶな子供なのだ。それに対して私は大人なのだから、毅然とした態度をとるべきだと自分に言い聞かせた。
 Mに私の気持ちを伝えると、彼女は口を挟むようなことはしなかった。でも、同じ家に滞在していながら、彼のことを無視し続けるのは精神的に苦しいことだった。彼も私に冷たくされてつらい思いをしていたはずだ。
 Mと日帰りの小旅行をしている間、やはりKのことが私の頭から離れなかった。どうしてお互いに、こんないやな思いをしなければならないのだろう。
 台北ではふだん、仕事で生徒たちの心の悩みに耳を傾け、アドバイスを与えている私が、いまは結局、Mに頼るよりほかなかった。せっかくの休暇だというのに、私ばかりかMまでも十分に楽しめていないのではないかと、彼女には申し訳ない気持ちでいっぱいだったが、そこへもってきて相談に乗ってもらうなんて、私はなんて情けない人間なんだろう。
 Mは半分呆れ顔で私を見つめながらも、「私がなんとかしてみせるわよ」と頼もしいことばで、安心させてくれた。
 翌日、学校から帰ったKから手紙を預かってきたといって、Mはノートの切れ端を私によこした。そこには英語でこう記されていた。
「親愛なるビビアンへ
 先日のことを心からお詫びいたします。今後はあのような悪ふざけはいたしません。二度とあなたに触れることはしません。ぼくはあなたともっと話がしたいだけです。この純粋な気持ちを、どうぞご理解ください。
                           Kより」
 Kには悪いけど、私はこの手紙を読みながら吹きだしてしまった。なんて古風なお堅い文章なんだろう。二度とあなたに触れることはしません、ですって。
 KはMの口添えのもとにこの手紙をしたためたのだろうが、ここに書かれていることは彼の本心のような気がした。不器用な英語の言い回しが、かえってそれを物語っているように思えた。
 その日のディナーの席で、私は彼に手紙をありがとうと言って微笑みかけた。彼はすこし頬を赤らめて、うれしそうに口もとをほころばせた。みんなの手前、気持ちを抑えているのがわかった。
「あの手紙はずっと大事にしまっておくことを忘れないでね」
 すこし意地悪く言ったつもりだったが、彼は真顔になって、
「もちろん。嘘は言ってないから、平気だよ」
とはっきりと言ってくれたのだった。
「きょうは二人のために祝杯をあげなくちゃ」
 ユージはテーブルに置いてあるショパンの肖像が描かれた白ワイン(それはKとその兄がワルシャワからの土産品としてもってきてまだ栓を開けていないものだった)を掲げた。アンが五人分のワイングラスを出してくれて、その晩はみんながほろ酔い気分で楽しい時間を過ごした。私は甘いワインをそっと喉に流し込みながら、好きな人と良き友たちのなかで、目の前が明るい光に満ちてくるよろこびをかみしめていたのだった。
 この町で私とKに残された時間は限られていた。彼が学校を終えたあと、二人で散歩したり、映画を観たり、パブに飲みに行ったりした。ただそれだけのことが、台北では仕事に明け暮れている私にとっては、すばらしく幸福な時間だった。私たちは子供のころのことから将来の夢まで、たくさんの話をした。法律を勉強している彼は弁護士になって人の役に立ちたいと考えているらしかった。
 彼は手紙で約束したとおり、私にすこしも触れようとしなった。仕方がないので、私のほうからそっと手を握ったくらいだ。でも、そんな誠実な彼のことがますますいとおしく感じられるのだった。
 私がこの町を発つ前日、空はどこまでも青く澄み、真綿をちぎったような白い雲が静かに流れていった。私たちは乾いた夏の風に吹かれながら、橋を渡り、見上げるように高いポプラの足もとで牛が草を食む牧草地を抜け、町外れの草原まで歩いていった。 
 私たちは人影のない河のほとりで、広い広い緑のじゅうたんの上に並んで腰を下ろした。空の高みから鳥のさえずりが小さく聞こえるほかは、風が時折そっとささやくだけの静かな夏の午後。広大な麦畑のはるか向こうに、町の教会の尖塔が強い陽射しを浴びて白っぽく輝いて見えた。
 楽しかった日々はもう終わりだ。明日には彼と別れ、私は台北に戻らなくてはならないのだ。
 二人とも黙ったままだった。ただ、いつまでもこうして幸せな時が永遠に続けばいいのに。
 彼はおもむろに身をよじると、私の唇にそのなめらかであたたかい唇をそっと重ねた。私は抵抗しなかった。ただじっとして、心のなかで同じことばをくり返していた。
 いつまでもこうして幸せな時が永遠に続けばいいのに。
 彼は静かに唇を離すと、うつむいて「ごめん。約束を破ってしまった」と謝った。
 私は彼の頬を両手で包み込み、そっと顔を上げさせた。彼のさみしげな碧い瞳を見つめながら、
作品名:尖塔のみえる町で 作家名:MURO