小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

尖塔のみえる町で

INDEX|8ページ/23ページ|

次のページ前のページ
 

3 台北から・二十八歳・ビビアン 八月



 
 ああ、私はなぜ、この町に舞い戻ってきてしまったのだろう。Kはなぜ、ワルシャワからこの町へやってきたのだろう。そして、私たちはどうして、アンの家で同じ時期を過ごすことになったのだろう。
 私は七年前、台北の大学生だったとき、この国に遊びにきたことがある。ケンブリッジを観光したときは、友人が高校生のとき語学留学で滞在したアンの家に二晩泊めてもらった。
 今回は仕事の休暇を使い、友人のMを連れて再びこの国に遊びにきた。アンとの再会を果たしたその翌日、彼はお兄さんといっしょにワルシャワからアンの家に到着したのだった。彼は大学の夏休みを利用して一か月間、アンの家に下宿してこの町の英語学校に通うことになっていた。私は今回の滞在では、二週間ほどアンの家に寝泊りして、ここを基点に周辺の村々をMと見て回る予定を立てていた。
 初めてディナーの席で彼を見たとき、私はなぜか心が浮き立つのを覚えた。まるで王子さまみたいな人だなという印象をもった。それは性格がわがままで、偉ぶっているという意味ではなくて、子どものころに読んだヨーロッパのお話に出てくる、ハンサムでやさしい王子さまが絵本からそのまま飛び出してきたみたいということだ。
 上背があってとても端整な顔立ちをした彼がつたない英語で話すとき、金髪に栗色が混じった長い髪がかかった碧い瞳を伏せて、すこし恥ずかしそうに微笑する姿が、なぜか私のまぶたの裏に焼きついて、その晩はなかなか寝つかれなかった。実際には同い年で英語のうまい彼のお兄さんのほうと話が弾んだのに……。でも、私が彼に好意をもったのは事実だし、ほかの人と話をしているとき、彼の視線が私をとらえていることはすっかりわかっていた。
 翌朝、私は遅くまで眠ってしまって、ダイニングに下りていったときはもうとっくに彼が朝食をすませて学校に行ってしまったあとだった。私はなんだかひとり取り残されたようなさみしさに胸をしめつけられて、彼が昨晩座っていた席に、彼が今朝使っていたであろうティーカップがそのまま置かれているのをぼんやりと眺めながら、食事の間中Mの話を上の空で聞いていたのだった。
 その日は電車に乗ってイーリーの町をMと訪れた。古くて立派な大聖堂をひととおり見学し、祭壇の前の椅子に腰かけてひと休みしているとき、Mが唐突に言った。
「Kはあなたのこと気に入ったみたいね」
 私は思いがけない言葉にハッとしながらも、わざととぼけた。
「Kが? どうして私を」
「きのう、ずっとあなたのこと見てたわよ。あれはひと目惚れって感じだったわね」
 Mはなんだか楽しそうに言った。
「やめてよ。彼まだ学生よ。子どもじゃない。気に入られても困るだけよ」
「あら、いいじゃない。あなたはいつも仕事ばっかり。このままじゃ結婚どころか、恋愛だって満足にできないまま歳とっちゃうわよ」
 Mはからかうように肘で華奢な私の身体を押した。すでに二児の母である彼女の腕は太くてたくましい。
「あんなかっこいい子だったら、歳下でも私はかまわないな」
「何言ってるの。あんなすてきなご主人がいるくせに。台北に帰るまで、監視役がついてることをお忘れなく」
 今度は私がMを肘で突く番だった。Mは「それって嫉妬なのォ」と頓狂な声をあげたので、私は彼女の脇腹をめちゃくちゃにくすぐってやった。
「でも、私にはわかるわよ。きのうのあなたときたら……」
 Mはにやにやしながら言った。「いつも以上に饒舌だったけど、Kにはあまり話しかけてなかったわね、なぜかしら」
「だって……彼、英語がまだうまくないじゃない」
「そうじゃない。いつも言ってるでしょう」
 Mは子どもを諭すような口調で言った。「好きだと思ったら、とにかく話しかけるのよ。英語がへたなら、教えてあげればいいじゃない。それを口実に近づけばいいじゃない」
「ちょっと待ってよ。私は別に彼のことなんとも思ってないのよ」
「いいこと」
 Mは私の目をじっと見つめた。「私はもう二十年もあたなの友人なの。それをお忘れなく」
 私は聖堂のおそろしく高くて広い天井をあおぎながら、大きく息を吐き出した。   
 私は本当に彼に恋してしまったのだろうか。きのう初めて会ったばかりだというのに、そんなことがあるだろうか。
 私はどちらかというと慎重なほうで、いままでの経験からしても、そう簡単に人を好きになったりはしない女だと自分で思ってきたのだが……。
 午後の陽が巨大な色硝子を通って、いくつもの光の束となって聖堂内に注がれていた。
 私はしばらくそこから動けずにいた。

 その翌日、朝方窓の外は乳白色の濃い霧に包まれていたが、陽が高くなると真っ青な空が広がり、夏らしい強い光が町中にあふれた。
 土曜日で学校は休みだったので、私とM、Kとユージの四人でカム河に出かけ、パンティングをすることになった。平底舟(パント)を貸し切り、コレッジの古い建物や美しい緑地を眺めながら河をくだるこの町名物の遊びだ。
 ユージは二月からアンの家に下宿している日本人で、温厚そうでちょっと茶目っ気のあるところに好感をもった。昨晩はこの四人のメンバーでお互いの国のことなどを話して盛り上がったが、私とM、ユージの三人が漢字を使って筆談しているのを、Kはちょっとつまらなそうに眺めていた。Mはすかさず「あなたはKに英語を教えてやりなさいよ。私はユージと漢詩の朗読会をやってるから」などと言って、強引に私をKの横に押しやった。
 おかげで、私はKと二人並んでソファにかけ、英語のレッスンを一時間以上も続けたので、いつの間にかユージとMの姿はなく、しまいにはアンにもう上に行って寝なさいと叱られる始末だった。
 話をすればするほど、彼が純朴であたたかな心の持ち主であることがわかり、私は彼のことをもっと深く理解したい気持ちを膨らませていった。彼のほうも、台北の中学校でスクールカウンセラーとして働いている私に興味をもち、いろんな質問を投げかけてきた。ただ英語を介しての会話にもどかしさを感じているようで、時折私の知らないポーランド語で何事かつぶやくのがおかしかった。
 パントの艫に立ったユージが慣れない危なっかしい手つきで長い竿を河底に突き立てると、パントはゆっくりと河をすべり始めた。行きはユージが、帰りはKがパントを進めることになっていた。ユージは二回目ということもあってか、すぐに落ち着いた竿さばきをみせるようになり、私たちは安心しくつろいだ。
 流れのない河にはパントがいくつも浮かび、涼しげな気持ちのいい水音をたてて思い思いにゆっくりと進んでいく。河岸の芝生の上には上着を脱いでTシャツ一枚になった若者たちがそこかしこに腰を下ろし、私たちを眺めながらのんびりと仲間とのおしゃべりに興じている。時折乾いた風が吹くと、枝葉を大きく広げた木々が河面に落とした濃い影が楽しげに踊った。
 私は夏の強い陽光を照り返して銀色にきらめく河面に手を差し入れ、冷たい水をすくいあげた。
「なんて気持ちいいのかしら」
作品名:尖塔のみえる町で 作家名:MURO